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~笛吹き同人福原徹が往く「この人、この曲」探訪の旅~

第3面 清元栄吉の「触草~クサニフレレバ」

――器楽曲と唄ありと、作るのにどっちが難しいとか、ありますか。

栄吉:ないですね。どっちもどっちですね。でもまあ器楽でも《うた》には違いないので、僕の場合《うた》のない曲っていうのはあんまりないので、同じと言えば同じでしょうね。ただ三味線音楽の《うた》の場合は、僕なら清元なら清元のそれなりの型があるでしょ、そうすると、自然とその中で表現していくことになるので・・世界が違うというか。

――その清元の世界にいることに窮屈な思いとかはないですか。

栄吉:それは全然ないです。言語が違うだけですから。

――僕は区分けがないんですよ。あんまり分けてないのね、自分の中で。極端な話、バッハを吹くときも自分の曲をやる時も長唄を吹くときも、わりと同じ感覚なんですよね。笛っていう楽器だからかもしれないですけど。だから栄吉さんたちが分けるっていうのを聞くと、すごくおもしろいなと思う。

栄吉:なるほど。だからたぶん徹さんは《演奏家》なんです。分ける・・分けるっていうよりも、たとえば、お寿司屋さんのカウンターに座ってブルーチーズ食べようと思わないでしょ?みたいなかんじかなあ。

――そうすると今の話でいうと、寿司屋に行くか、中華に行くか、みたいなことなわけですか。

栄吉:そうそう。それで、どんな中華料理作ろうかな、ってなるわけです。新聞の取材とかでも「清元の人がこういう曲を生むのはどういうところから?」なんて、よく訊かれたもんですけど。「そもそも清元と関係ないですから」って言うんです。そんな風に訊かれるの、すごく困ったですね。

――ということはね、料理で言ったら栄吉さんは、寿司屋の板前をやりながら、ある 時は中華のシェフをやってる、っていうかんじなんでしょうかね?

栄吉:まあ、作る側っていうと、そういうことですよね(笑)。

――なるほどね。僕の場合は、僕、料理しないからよくわからないけど・・家庭料理なわけ。お母さんが作る料理って、ご飯があってコロッケがあって、おかずが洋風なのにお味噌汁。それに牛乳飲んだりするわけじゃない?ぼくの感覚ってそっちなのかもしれないんですね。ただそれがまだちゃんとなっていないっていうか、自分の中で混とんとしている状態というか。
栄吉さんの場合は、ある時は中華を作り、ある時はフレンチを作り、っていうことですか?

栄吉:いや違いますね。だって僕、作る側に行ったことないんだもの。ぼくは食べる側です。

――それは作曲というのが食べる側だということ?

栄吉:うん。そうですね。うーん、どうしたらこんな音がするんだろう?みたいなかんじ。

――作るのは誰が作るの?

栄吉:え?だからその時に、いろんなレシピを出してきて「どうやったらこんな味が出せるんだろう」って始めるっていうことです。そういう意味ではジャンルは関係ないんです・・うまく言えないけど。
さっきの徹さんのおっしゃった・・いいですね、お母さんの手料理。冷蔵庫にあるものから、いろんなものが出来るっていう。ある意味僕は作り手じゃないですね。自分も鑑賞してる側っていうか。それを実際音に仕立てなきゃいけないわけだから、味わってる場合ではないんだけど(笑)。

――いみじくも今「食べる側」っておっしゃったのはすごく大事なところだと思うんですね。
以前「演奏家のプレイヤビリティに頼りたくない」っていうお話をなさってましたよね。僕なんかはやっぱり、笛を吹いてナンボみたいなところがあるわけですよ。吹きたくない音は使いたくないっていう。自分の吹きたい曲をなかなか他人が作ってくれないから自分で作るっていうようなところがあって、非常に独りよがりになりやすい。自分が吹くことが大前提だし。人にやってもらってそれを聴くっていうのは全然、想定に無いんです。

栄吉:なるほど。

――もしかしたら創邦の人って僕側の人が多いんじゃないかなって思うわけですよ。演奏家達だから。

栄吉:そうですよね。

――それが栄吉さんの場合は、作曲の訓練を初期の段階でしているから、ある種、客観視してるというのか、「食べる側」とおっしゃったのは大事なところだと思うし、そこがまた、栄吉さんの強みにもなっているんだろうな。

栄吉:言い様ですけど・・でも、素人臭いっていやぁ素人臭いですよね。

――いやいや。僕は自分ですごくそこがダメなんだろうなと思うところであって。でもなかなか聴く側にまわれないっていうかね。聴いてはいるんだけど、純粋に「食べる側」にはまわらないで、自分の作りたいものを作っちゃって。それが美味しいかどうか、わからないっていう(笑)。

栄吉:ぼくにとって曲っていうのは「できあがった料理」であって、「材料」ではないんです。「材料」を合わせてこれができたっていうのではなくて、まず「できあがった世界」を味わってみる。どうしたら聴いてくださる人たちにも同じ体験をしてもらえるか工夫する。
そういう意味では「どうやったらこの味が出るんだろう」という悩みはします。

――ああ。だからこそ、こういう曲が書けたんだろうなあ。

栄吉:たとえば「呪術」っていうところ。あれは政太郎先生のお宅に伺った帰りにね・・代々木上原の駅のホームで電車を待っている時に、なんとなくあのメロディーとムードが出てきたんです。でそれを「そのイメージどおりに鳴らしたいな」と思う。どうしたらいいか、わかんなくてとにかくああだこうだガタガタやってみる。ま、技術的なこととかもちろんありますけども、材料を並べてそれから何かを作っていくんじゃなくて、どうしたら「これ」ができるのかしら?ってやります。

――ま、それが本来作曲家のあるべき形だと思う。

栄吉:そうなのかなあ。よく、ベースラインを考えてから上物を作るとかね、コード進行を作ってからメロディを考える人とか、いるじゃない?ぼくも中学校二年のときに初めて作った曲は、そうやってコード進行をまず考えて作ったんです、ギター弾きながら。
でね、高2のときに作曲の先生という人に初めて師事したんですけど、レッスンでね、いきなり「君の曲にはメロディーが無い」って言われたんです。

――ほお。

栄吉:それはよく覚えてます。「メロディーを書け」って言われたの。

――今思い返しても、そうですか、実際。

栄吉:イヤあの、器楽的なパッセージはあっても「そうじゃない、メロディだ」って・・言われても意味がわからなかった・・政太郎先生がよく言ってらっしゃることとたぶん近い、と今では思うんだけど。
ぼくはその先生の影響で「そうだメロディーを作んなくちゃ」と思ってやってるかも。
でね、何がメロディーだと思ったかというと、一本のラインでちゃんと何か伝わるものがあって、何ら演出の要らない・・伴奏とかコード進行とかの支えや助けがなくても何かを訴え得るようなもの。そして、器楽的な「パッセージ」ではないもの。

――うたのようなかんじですかね?

栄吉:そうですね。うたえるもの・・・かもしれないです。だから、清元の曲を作る時にも、三味線の手順を後から考えることの方が多いですね。この七・五の歌詞をこういう浄瑠璃にしたいなっていうのがまずあって・・・。

――ある種、アカペラの《うた》を考えるわけですか?

栄吉:そうかな。アーアアアアーっていうこの《うた》に三味線をつけよう、みたいな。
もっとも、たいてい、浄瑠璃の節の形と三味線の音型ってのはセットになってますから・・つまり既に方程式があって、こういう節にはこの三味線っていうのがありますからね。
先に三味線の手順を決めてそこにうたを当て嵌めることは、三味線音楽でもあんまりしないですね。踊りとかの曲だとね、それはそれでまた別なんですけど。

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