第2面
今藤政貴の「ぼくが作曲できない理由(わけ)」
④
――その後政貴さんは普通にというか自分で作品を作っていかれていますけれども、政貴さんは、プロットありきなんですか、それとも「こういう唄をつくりたい」というのがあるんですか?
政貴:今はとにかく、歌詞の構想の段階から関わるんじゃなくて、限りなく依頼作曲的なやり方で曲をつくってみたい。そうすると、逆に引き出しが試される。そういうものを作りたいと思います。できてきた歌詞を基本いじらないで、ただ受け入れて作るっていうのを、一回してみたい。ただまあ、純粋な器楽曲を作ろうという気持ちは、今はまだないです。
――どうしてもそりゃあ唄でしょ?
政貴:そうなっちゃうのかなという気はしますけれども。
――「夏のおもいで」、あれは詞は?
政貴:あれは全部自分です、だから自己完結です。それもあって、今度はああいうのと反対なのをやりたい。いくつかやってはいるけど、共同作品が多いですからね。自分一人で作りたいなあと思います。次回作るときは、可能ならそういうのにしたい。
――唄うたいである政貴さんが作るのはおもしろいと思うんですね、他の三味線の人が作るのとは違ったものが出てくるはずなんですよ。だからとても大事なところだと思う。
政貴:唄の人が作ると三味線の手が凡庸になりやすいですよね。まあ、ぼくがそうだっていうわけだけども。すくなくとも自分がやるときはそうですよね。だからそれをいかに粘って作れるか。それと、三味線の手が混んでてそこに唄を嵌めるのは、三味線がうるさすぎて唄が聞こえなくなっちゃう。唄うたいとしてはそれを本能的に嫌うんです。だからどうしても手の込んだのは、すくなくとも唄っているときは作りたくなくなっちゃうわけです。
――そりゃそうですね。
政貴:だからそれを我慢して作るっていうのを、ほんとうはしなきゃいけないんでしょうけど。
――その按配がなかなか難しいところですね。
政貴:「聞こえないのはいやだ」っていうのを、精神的、心理的な意味でどう克服していくか。ぼくが作った曲は、音がダーっと流れるかんじが、ないんです。合方は別ですけど。でもね、たとえば秋色種なんてけっこう難しい手を使って、そこに唄を載せているんだけど、それがちゃんと聞こえるじゃない?それがまあもちろん力量の違いなんだろうとは思うんだけど。でも絶対にそれはもう、唄うたいに優しくなりますよ。無理させないっていうか。
――唄いやすいものにする?
政貴:唄いやすいっていうか、あるいは覚えやすいというか。そうなりがちになっちゃうんですよね。三味線弾きが作る方がサディスティックですよね。
――ウハハ。そうですか。
政貴:三味線の人はさ、音の高い低いはどこを押さえるか、手を放すかってことだからさ。しかもみんなバリバリ三味線弾けるじゃないですか。弾けると、難しい手とかをもう作っちゃうじゃないですか。
――ああ。自分が弾けちゃうからね(笑い)。
政貴:大雑把に言って、呂(リョ=低い音)と甲(カン=高い音)が両方好きな人っているんですよ。ぼくは呂と甲ばっかり出てくるような曲は作らないですよ。呂は一カ所、甲は一カ所くらいにしておきたいなってどうしても思っちゃう。でもたしかに音の幅がある方が音楽的には変化が出るわけで、三味線の人がそういう曲を作るのも無理もない。唄うたいだって、もっとすごく声が出る人とかだと、唄うのが難しい曲を作るのかもしれませんね。どうも自分の声を基準に作っちゃうんですね。
――これは勝手な想像だけれど、もし政貴さんが小品を作ったら、お弟子さんとかが唄えるものができるようにちょっと思いますね。短くて、現代的な内容のものとかで。現代的な内容っていうと普通すごく難しくなっちゃうでしょう?もしかすると、唄うたいが作ると、ものすごい超絶技巧じゃなくてもっと普通の技術で唄える、そういうものが出来得るんじゃないかなって思いますね。
政貴:そこも難しいところで、要はそういうのってどこか《キャッチー》じゃないといけない。 癖になるところっていうかおいしいところがないといけないんだけど、それを作るのが難しい。
――つまり「ここ、唄いたいよね」って思わせるようなところですね。
政貴:カラオケでいえばサビの部分といいますかね、そういうのを作るのが大変だと思うから、それが作れるようになりたいですよね。それは課題ですよね。
――政貴さんはできるような気がしますね。唄うたいというのもあるし、環境がね、創邦の環境も含めて独特なところにいるじゃないですか。
政貴:独特かどうかはよくわからないですけど、それは創邦21という団体自体が独特ですからねえ。
(2018年7月)
ききて:福原徹、編集:金子泰