創邦21 第16回作品演奏会 創作Q面 創邦11面相

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ヨミモノ

創邦11面相

笛吹き同人福原徹が活動中の10人の仲間を巡る旅、題して創邦11面相
今月は月島の自宅稽古場に杵屋淨貢を訪ねる。

杵屋淨貢篇

骨太のロマンチスト [前篇]

2つの処女作

――この企画は、皆さんに創作ということに関していろいろな角度からお伺いしたいなということでして。まずその、淨貢先生の場合・・・

杵屋淨貢:淨貢「さん」。淨貢さん、ね(微笑む)。

――では、えー、淨貢さんの場合、すごく早くから作曲をなさったと思うんですが、最初のきっかけというのはどういったものだったのでしょうか。

淨貢:作曲の?あのね、(三世)今藤長十郎先生がとにかく作曲をおやりになっていたから、ぼくたちも三味線を教わりに行って、今藤綾子先生に唄もお稽古していただいていたし、当然作曲も勉強できると思っていたわけですよね。

――そもそも作曲を習おうとして今藤先生のところへいらしたってわけですか?

淨貢:それは違うんだ、その前から作っていたから。

――では作曲の最初の一歩っていうのは、何か具体的なきっかけはあったのですか。

淨貢:それはね、高校卒業の時かな。うちの母がずっと苦労をしてくれていたから、母に捧げる新曲を作ろうと思ってね。それが処女作ですね。ただしそれは公開してないけども。母の名前が「寿美子」というので、「寿(ことぶき)」で始まって中ほどに「美しき」とかいう文言を入れて、最後「子」と、歌詞の中に名前を入れて作ってみようと。たしか『巣立ち』って曲。そんなのぼく忘れていたんですけどね、ついこの間そこの戸棚開けたらガラガラッと落っこってきたのをまた積み直していたら、その譜面が出てきました。あっこんな曲があった、これが最初だなと思って。それの別にぼくが処女作だと言っているのは、今藤先生から「何でもいいから作ってみろ」って言われて、「はいっ」じゃあ唄入りの曲を作ってみようと思って、詩集を読むけどどれ見ても帯に短し襷に長しで、自分にちょうどいい寸法がないんで困ってたんだけども。それで「巳太郎の会」っていう自分のリサイタルをやることに決めて、今藤先生に相談したら「おお、やれやれ。そのかわり必ず新曲をやったがいい」と。そのリサイタルをやろうっていう時に、高橋健二さんの訳したゲーテの詩集、それを読んでいたら『ローレライ』があった。『ローレライ』って題じゃなく、つまり海に引きこまれる漁夫をテーマに、『漁夫』という名前で。これだなあと思って、勝手に作ったんですよ。

「漁夫」譜面

――それが外に出たというか、公の最初の曲ってわけですね。三味線を習いに行かれたけども今藤先生が作曲もなさっていたから。ご自身では作曲に対する憧れはあったのですか?

淨貢:ああ、やっぱりありましたねえ。いろいろ聴いて、面白いなあと思っていてね。

――それはやっぱり、その時代っていうのがあるんですかねえ。その頃ってある意味では今よりも、洋楽系の人が現代邦楽を作るのと別に、邦楽の演奏家の人がわりと作った時代の始まりなんじゃないかと思うんですけど。

淨貢:そうじゃないかと思いますよ。でね、もちろんまだ古典形式の長唄は作れないから、何にもないからね。だから自由作曲から入りました。先生に聞いてもいただいたんだけど、「いいじゃないか」と。「お前、来年の襲名の会で発表しなさい。これは日本舞踊にちょうどいいから、俺たちの仲間で花柳寿之輔っていうのがいるから、聞かせてみるよ」って。そうしたら寿之輔さんがいいじゃないかって言ってると。「これで踊ってくれるっていうから、やんなさい」ってね。そうなの、先生が全部お膳立てして下さってね。

――へえー!非常に恵まれたスタートですね。

淨貢:そうそう。自分の会があったからね。イイノホールができたばっかりの時に、そこでやった。その時はぼくの襲名披露の会だからっていって、梅幸さんが出て下さって『松の緑』を踊って下さって、(七世・芳村)伊十郎さん、柏扇左衛門さん、前の前の柏伊三郎さんという芝居長唄の錚々たるメンバーが助演して下さった中で、このぼくが弾かせていただいた。そうやって皆さんに温かくしていただいたんですねえ。

――そのときは、お芝居の中で何か作るというのはなかったんですか?

淨貢:ええ、まだぼく芝居(菊五郎劇団音楽部)に入ってないから。長唄の勉強だって思っていたから。

三世長十郎師の教え

淨貢:うちの父の告別式の時に今藤先生が、大阪にいらしたのが飛行機で飛んできて、式に参加していただいて。ぼくは学生服でこう、立ってたんですよ。そしたら帰りに「おお、まーちゃん(淨貢)、お前大きくなったな。」って。で、その後すぐ手紙くれて。もしお稽古を始めるんだったら、ぼくのところには若いのが来てるから、仲間になって丁度いいから、良かったらおいでって。それでぼくはもう、すぐ先生のところに行った。18歳の時。あ、夏だからまだ17だな。それで行ったらね、学生服着てひとり、兄貴分がいた。それが政太郎さん(笑い)。

――なんと。

淨貢:いきなり行ったら、先生が「お前今何を弾ける?」。「越後獅子なら弾けます」「よしやろう」って言って。しかし酷かったらしい、これがね。先輩方、今藤流のお弟子さんたちが大勢いるわけですよ、それでとっても応援してくれたんだけど、その方たちが「あれ、間に合うかしら」って思ったらしい(苦笑い)。あとになって知ったんだけども。

――そうなんですか。

淨貢:それからがもう、すごい。撥の上げ方、当て方、もちろん勘所、きびしいお稽古でね。女流のお弟子さんたちのお稽古が終わると、ぼくたち男の子のお稽古なわけ。するともう手事ですよ。チンチリレン。それが済むと滝流しをやったり。ぼくより前に政太郎さんがチンチリレンやってね、ものすごいの。先生のお稽古場って、東京駅の八重洲口ね、八重洲通りのふつうのおうちの四畳半の部屋を借りてね。それでね、ちっちゃいお部屋で、もーのすごい稽古でしょ、もちろんクーラーなんかない時代だから少し窓を開けてる、そうすると黒山の人だかりになるわけ(笑い)。通り中の人がみんな覗いてるわけですよ。

――ウハハハ。で、猛烈に弾いてるわけですよね。そりゃすごい(笑い)。

淨貢:そう。猛烈に弾いている。それで先生が一番すごいでしょ。ぼくたちは本手弾いてるんだけど、先生は替手弾くからさ。もう神業を道行く人たちに聞かせてるようなものですよ。

――そこでお稽古をされているうちに、自然に作曲もやるように・・・?

淨貢:結局ねえ、少し弾けるようになったらば、いろんな勉強会や踊りの会に出させていただいたり、もちろん若手の演奏会も作ってくれて、ぼくたち、自分たちで仲間集めてね、今の宮田(哲男)さんとかね、今藤長之さん、岡安の喜代八さんとか唄が男が3、4人で。三味線がぼくと政太郎さんと・・・当時まだ政太郎になってない、「晴雄ちゃん」の時代ですよ、それと女の子も入れて勉強会を作った。今は新富町にある大野屋総本店っていう足袋屋さんの息子がぼくの学校の友達だったので、そこの2階の舞台を借りてやろうって7~8人で勉強会。4曲くらい発表するでしょ。客席がすごかったね、先生方ばっかりで。今藤先生でしょ、綾子先生、(四世)藤舎呂船先生、それからぼくの伯母(杵屋蔦子)や伯父、おふくろも先生やってたし、それから岡安南甫さんや稀音家三郎さんとかも。で、あと誰もいないんだもの。「おれたちが聴いてやる。まだ人なんか入れちゃダメだ」って言うんだもの。ぼくもまだ父のお弟子さんたちを呼ぶのも恥ずかしいしさ。それはもう緊張しますよ(笑い)。最初っから自分たちだけで練習してね。ぼくは『綱館』を弾くよって言って、宮田さんに唄ってもらってね。

――今藤先生は具体的に何か作曲の仕方とか何か教えられたのですか?

淨貢:全然なし。作ったのを聴いてくださるだけ。それで「まあこんなもんだ」とか「いいんじゃないか」って言って。たとえば本調子で始めて二上リにするとかいうのも、自分たちで勝手にそうしていた。先生には「段切れがねえ、おしまいの方がちょっとなんとかなんないかね」とか、そういうふうに言っていただいた。

――こうしろああしろっていうよりは、自由に、とにかく作れと?

淨貢:少し弾けるようになってくると古典の曲ばかりじゃなくてやっぱり先生の曲も踊りの会なんかで弾かせてくださるから、いろんな曲を勉強させてもらって。譜面の書き方も全部先生の譜を真似して。それで作ったのをお見せすると「まーちゃん、お前もうちょっと唄を勉強しなきゃダメだよ」って、そういう教え方ね。それで唄の曲が2、3曲続くと今度は三味線の曲を作れ。そういうふうな大きな教え方ね。細かいことはおっしゃらず、やってみろやってみろで。

――じゃあ怒られたりもなく。自然に作曲をやるようになったんですね。同じような頃にやっぱり政太郎さんなんかも作っていた?

淨貢:そう。ぼくたちが作り始めてすぐ東京新聞社の作曲コンクールがあってそこへ出せってことになって、晴雄ちゃん(政太郎)が1位。ぼくも翌年1位とって。さらに晴雄ちゃんはあの時いきなり文部大臣賞をとって。すごかったですよ。長唄協会でも、若手の作曲コンクールを2回くらいやってたかな。

「創作邦楽研究会」とその時代

――それで、そうしているうちに「創作邦楽研究会」が出来たってことですか?

淨貢:いきなり「創作邦楽研究会」を立ち上げたわけじゃないのね。今藤先生が三越と提携して、「陶裳会」っていったと思ったなあ、吾妻徳穂先生ととっても仲が良かったので、今藤先生が作った曲を吾妻先生が踊るのが目玉で、それだけじゃアレだから若いお前たちには古典曲を勉強させるっていって演奏させていただいて。それから先生もやっぱり古典曲を、伊十郎さんと『二人椀久』とか、そういうのをなさって、もちろんぼくらも使っていただいて。それが3回か4回した時に「創作邦楽」を立ち上げた。これはねえ、東京オリンピックがあって、その時にいろんなところが協賛公演というのをやった、長唄協会も古典の会をやった。で、先生がせっかくだから新曲も外国の人に聴いてもらおうってことで、それで立ち上げたのね。第一回は上野の文化会館の大ホールでやったんですよ。でもオリンピックの組織委員会が切符の斡旋をしてくれるわけじゃないから、外国の人は誰も来ないわけ。だから今度の2020年のオリンピックもね、ぼくは長唄協会のオリンピック委員になっているから、集まりに呼ばれた時一番最初に質問したんですよ。一ㇳ月というその期間に、外国のお客様にわれわれの催しを紹介してくれないかって。長唄には20名、歌舞伎には100名なんていうふうにして、お客様を紹介してくださるというのも面白いと思うんですけどね。

――そうですね、集中してあちこちハシゴしても見られますしね。それでまた逆に日本人も関心持ってくれたらいいですしね。

淨貢:そうなのそうなの。でも今回そういう動きはまだないみたいですね。

――その、創作邦楽というような名前を使ったのは、「創作邦楽研究会」あたりからですか?

淨貢:だと思いますね。それまでは「現代邦楽」って言ってた。NHKでも民間放送でも。だけども今藤先生は「創作邦楽」。しかもね、やっぱりオリンピックの文化プログラムをイメージして「創作邦楽の展示」となさった。ぼくは展示とは呉服屋さんみたいな名前だなあとずーっと思っていたら、今度のオリンピックでね、文化プログラムをやる時は「展示」という言葉を使うきまりだというので、ああそうかオリンピック用語なんだってやっとわかった。で、それを「創作邦楽研究会」と変えてね。そりゃあたくさんやりましたよ。地方にも行った。地方公演の場合は7~80人で移動。京都、大阪、その後は富山とかにも行きましたねえ。

――うーん、そういう、なんていうか気運みたいなのがあったんですねえ。

淨貢:ありましたねえ。ぼくたち、そのころ漸く青年将校と呼ばれるようになったわけだけれども、いろいろ口出すわけですよ、公演に。先生はまあ、やらせようってことであんまり言わなくなっちゃって、青年将校たちが企画立ててやるでしょう。切符は先生のお弟子さんたちが買ってくれるわけだからまあ変な話なんだけど、そこまでこっちは気が回んないから。でもやりたいことやってね、ぼくたちで下浚いも全部仕切っちゃって、舞台稽古も仕切っちゃって(笑い)。それでまあ、実地の勉強してたわけですよね。

――今藤先生ってそういう大きさがある方だったんですね。

淨貢:そうね。メンバーには青年将校を卒業なさった文字兵衛(現・常磐津英寿)さんと(清元)梅吉さんがいらして。だから、すごかった。

・・・後篇につづく

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