トップページ > ヨミモノ > [創邦11面相] 松永忠一郎篇 ~古典的スタイルにこだわる理由~ 前篇

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創邦11面相

笛吹き同人福原徹が活動中の10人の仲間を巡る旅、題して創邦11面相
今月は神宮前のアウディ・カフェに今藤政貴を訪ねる。

今藤政貴篇

作品に込める等身大のメッセージ  [後篇]

ことばを大事にしたい

――『ぼくが作曲できない理由』で作曲を始めて、その後いくつか作ってらっしゃるけれど、政貴さんが作るにあたって何か一貫したテーマとか方向性とかはあるんですか?

政貴:もちろん何人かの人だけでいいということではありませんが、みんながまあまあだと言うよりは、あるインプレッションが誰かに伝わる、そういう方がいいということは思いますね。びっくりさせるとかいう意味じゃなくてね。環境音楽的なものよりは、何らかのメッセージのあるものを作りたいです。あと、能力的な問題もありますけども、今のところ純音楽的なもの、音楽の構造だけで聴かせるものは作れない気がしますね。もちろん志向の問題もあるでしょうね。だから今のところは歌詞があって、何らかのメッセージが、ストレートでなくても嗅ぎ取れるくらいのものは欲しいんじゃないかなあ。ただやっぱり、自分で歌詞を作るのか人の書いたものを作るのかっていうことで、態度が変わりますよね。例えば谷川さんの曲(『桜花下巡月』)。結構テーマが重くて、それと作者の谷川さんの思いをどう表現するかに腐心しましたよねえ。自分で歌詞書いた曲でいうと、2曲っていうか実質1曲しか作っていないんだけれども、あれは自分の作詞なので作りやすいといえば作りやすい。でも意外性は出てこないかもしれないですね。もう歌詞がだいたい出来た時点で、出来上がった姿がなんとなく見えてるんですよね。

――いずれにしても、やっぱりことばを伝えるっていうところが大きいんですかね。

政貴:自分が歌詞を書く場合はもちろんそうだし、人が書いている場合でもやっぱりそこは大きいかなあ。当たり前だけど歌詞の内容はある程度咀嚼できてないと。こないだの『清しき花』でも、結局あんまりよくわからなかったんだけど、自分で何らかの解釈を施しますよね。そうじゃなきゃ作れない。あれも楽しかったですよ、相談作曲っていいますか。はじめて歌詞を見たとき思ったのと全然違う曲になってびっくりしましたけどね。 さっきの「万人受けよりは云々」ということで言えば、『夏のおもいで』『冬のできごと』なんていうのは、100人聴いているうち5人かそこらが少しはいいと思ってくれて、後の人は「暗っ」とかで終わっちゃうような曲でしたよね。でもあれは作りたかったんだからしょうがない(苦笑い)。『夏のおもいで』なんか、評判悪いっていうか反応ないっていうか、逆に「この人何があったんだろう?」って心配されちゃうような(笑い)。イヤこれ創作だから(笑い)。心配されちゃうほどあまりに「暗い」って言われたので、続編の『冬のできごと』を作ったんですけどね。

邦楽の人間として

――これから作りたいテーマは?

政貴:ありますよ。でもまだ内緒です。全く自分のオリジナルで考えてます。

――ご自分が演奏しない曲を作ることもありえます?

政貴:ありうると思います。だって『ぼくが~』でも、ぼくも一回くらい演ってはいるんですが、はじめから「あっこれは杵屋巳之助くんだ」というのがあった。極端な話ぼくは出なくてもよかったんです。要するにね、先に企画があって、それに嵌るようなら自分が唄うし、自分じゃないと思ったら誰か他人にしようと思う。構想が出来て形が見えて、それで演者を考えたいですね。でも自分が唄うたいだっていうことは、間違いなく作る曲に反映はしてますね。ぼくが作る曲って比較的音域が狭いんですよ。甲で押し続けさせちゃうとか、呂を唄わせ続けちゃうとか、そういうことは絶対しないです。そういう“必死感”が音楽にあった方がいいという考え方もあるんだけれど、自分がこんなのイヤだなあって思いますんでね。自分の中で完結すると取りづらい音じゃないのに、後で見ると取りづらかったりってことはありますけど。それとぼくは今藤で育ってきていて、今藤の唄の、「ハマリ」を大事にするという、要は字配りと手数(てかず)、拍子数を大事にする教育を受けているので、その影響でわりと唄いやすいとは思います。まあでも三味線の人にしてみれば弾きやすいとは言えないかも。ふつう出ない手順で作ったりするらしいし。

――伺っていると、作るものが必ずしも長唄でなくてもいいんじゃないかという風にも感じられますが、長唄の型にこだわるつもりは別にないということですか?

政貴:うーん、どうなんでしょうね。ただやっぱり自分は長唄の、長唄と言わないまでも邦楽の人間ではあるので、ありうると言えばありうるけれども可能性は低いんじゃないかと。どこか邦楽的な声やら唄やら音列が、ある程度自分の好みにくっついている部分があると思うのでねえ。たとえば三味線がいなくちゃいけないとは思わないですけど、三味線の音とかが非常に自分の感性の近くにいるので、曲を作るといって初めに思いつくのは三味線なんだろうと思います。ぼくは引き出しが多くあるわけではありませんけど、古典的手法、古典的な音列や音の響きからまずはスタートするんだろうな。そこを否定とか拒否したところから始まるよりは、そこからスタートして、物足りない場合はそれを外すという感じじゃないですかね、今のところ。 

――長唄の古典曲でお好きなのってありますか?

政貴:いい曲だと思うのはたくさんありますね。好きなので言うと『高尾懺悔』なんか結構好きですね。ある程度陰影のあるものが好きかな。例えば『吉原雀』と『高尾懺悔』だったら高尾ですよね。まあこの二つはあまりに違い過ぎてるから比較しにくいけど。『二人椀久』と「吉原雀」だったら椀久の方が好きです。構成もはっきりしていて、玉になっても或いは最後のチラシになっても陰影はあるんですね。あとはそうだな、『三曲糸の調』も好きですね。前に国立劇場の邦楽鑑賞会で、(今藤)文子先生が(貴音)康先生とでなさったんですよ。それがもう名演奏でねえ。ぼくは横で聴いていたんですけれども、感激して、自分でもアホだなあと思うんですけど文子先生を褒めたんですよ(笑)。「いやあ、良かったですよ」って。ふつう先輩のことは褒めないものらしいんですけど、すごく良くて、「絵が見えました。素晴らしかったです」そうしたら文子先生が、・・・でもねえ、文子先生もたぶん結構良く出来たと思ったんじゃないかな、「あ、そう?えがったす」って。“えがったす”っていうのは、うちの父の作った『雨』って曲の“おたか”っていう役の言葉なんですけどね。その演奏を伺ってさらに好きになった感じですかね。

――演奏による違いっていろいろありますよね。邦楽は演奏の比重が大きいですよねえ。

政貴:大きいですよね。だからさっきの話じゃないけど、演奏同人っていうのは非常に辛いんですよね。責任が重いというか。逆に作る側としては、いい人になんとか演ってもらいたい。でもね、自分が邦楽の人間だなと思うのは、全く自分の言った通りじゃなくてもまあいいやと思えるところ。箇所にもよりますけれどね。基本的には、その人の唄でその人の持ち声で唄ってくれればいいんです。むしろ三味線のノリとか運びとかの方にうるさくなっちゃうかもしれませんね。でも気が弱いんで、あんまり言わないで「まっいいや」ってなっちゃうんです。

ポジティブに終わりたい

――さっきの古典の曲、浮いた曲ではありませんよね。椀久だってハッピーエンドではない。作られた曲も“楽しくワイワイ”じゃないですよね。そういうのがお好きですか?

政貴:いや、本来ぼくはハッピーエンドが好きなんです。たとえば『夏のおもいで』は、なかなかそうは伝わっていないんですけど、またそれが問題なんですけど、あれは応援歌なんですよ。『蜘蛛の糸』じゃないけど、一筋だけ救いがある。「まあでも、みんなこういう思いをしているんだから、がんばろうよ」というような。だから最後の歌詞で「われのみと な思いそ」って言ったり、わざわざ二人で演奏したのも、自分ひとりじゃないってことなんですよね。

――『ぼくが~』も、成功するまではいかないけれど前向きに終わりますね。

政貴:ポジティブに終わりたい。作るものに関しては、どこか希望があるものにしたいって気持ちがあります。

――どうしてです?

政貴:人間が甘ちゃんだからじゃないですかね(笑い)。それと、自分がお客になったとき、救いのない作品はやっぱり辛いですよね。

――椀久も高尾も救いがないじゃないですか。それはいいんですか?

政貴:椀久は救いがないですねえ。でもね、椀久って芝居でいえばあれで狂い死にしてしまうんですが、演奏する側としたら、どこかで陰影はあるかもしれないけれども、最後はやっぱり明るく終わりたいっていうか、せめていい夢を見たまんま死んでもらいたいって、そういう気持ちでは唄うんですよね。 ハッピーエンドはすごく好きですけれど、そう言いながらも、悲劇的な終わり方でもいいものや好きなものも多くて。ぼく、演劇でひとつ好きな作品を挙げるとしたら『シラノ・ド・ベルジュラック』なんですけれど、あれもハッピーエンドじゃないですよね。シラノはロクサーヌと心は通じたんだけど、・・・んー、でもやっぱり成就せずに死んでいくわけで。それからR・レッドフォードとP・ニューマンの共演で有名な映画が2本ありますね。『スティング』と『明日に向って撃て』。じゃあどっちが良かったかっていうと、ぼくは圧倒的に『明日に~』だと思うんですね。そうするとね、自分としてはどこかハッピーエンドがいいんだけど、でも本当に感激するのは暗く終わる方なのかもしれないし、このへんは自分で矛盾を抱えているのかもしれないですけれども。救いがない状況って感じることが、ある意味自分への救いになっている部分もあるんでしょうしね。 ぼくは春夏秋冬的なものを作ろうとは思わなくて、どうしても筋立てのあるものになってしまうんですが、そうすると話の流れ上、一定の絶望的な状況をどこかで出さざるを得ない部分はありますよね。最初から最後まで楽しくて軽く笑えるような曲は、それでいい曲ができたらすごいことだと思うんですが、それを作れるまでの力量はないのでねえ。

――これからもその路線で?

政貴:うーん、ちょっとわからないですけど、方向性云々というよりは、とにかく今まで作ったものを見るとまだ粘りを欠いている気がするんで、もうちょっと粘らなきゃって思いますね。これまで歌詞の段階で若干エネルギーを使い果たしちゃってるきらいはあるので、曲の方でもあと一粘り、いや二粘りぐらい粘って作りたいですね。

――では「粘りの政貴」の作品を楽しみにしています。

政貴:(笑い)ありがとうございます。

(2015年2月5日 神宮前 アウディ・カフェにて)
ききて:福原徹、記録:金子泰

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