トップページ > ヨミモノ > [創邦11面相] 今藤長龍郎篇 ~すべては自分の糧である~ 前篇

ヨミモノヨミモノ

創邦11面相

笛吹き同人福原徹が活動中の10人の仲間を巡る旅、題して創邦11面相
今月は成城学園前に今藤長龍郎を訪ねる。

今藤長龍郎篇

すべては自分の糧である [前篇]

子どもの時から作曲を

今藤長龍郎:ここに来る前に皆さんの「11面相」を読ませていただきました。それぞれの個性が場所にも出てますよね。今日は遠くまでお呼び立てしましてすみません。

――いいえ、ちっとも。長龍郎さんはお家がお近くなんですか。

長龍郎:ええ、今日は車で来ましたが、ここからわりとすぐです。歩いても来られます。

――そうですか。さてそろそろ始めますが、長龍郎さんは子どもの時に作曲をなさっていた経験があるそうですね。その話に行く前にまず、三味線は子どもの時からやってらっしゃったんですか。

長龍郎:三味線は、ぼくは10歳からですね。唄も9歳くらいの時に、うちの父(今藤尚之)のお弾き初めか何かで、「松の緑」だったかをやるからお前も唄いなさいって言われて、唄本を書いてもらって唄った。それだけです。ですので、当時の長唄のそういうお家に生まれた子供としては、群を抜いて遅いんですね。今藤でいうと、政貴さんはもう唄ってましたし、いろんな方に「尚之さんのところの健ちゃん(長龍郎)、まだやらないの?」って言われていたそうです。たぶん、うちの父がそういう家の生まれではなくて好きでこの世界に入った人なので、無理やりやらせるのもどうかって思ったんじゃないでしょうかね。またうちの母親も、お囃子の家系に生まれながら(注:藤舎名生氏、中川善雄氏のお姉様)、自分は笛をやるのが嫌で、そっちの方は何にもやらないで声楽を勉強したり。そういう両親なんで。幸いっていうか、ぼくがピアノが好きで、やりたいって言って4つの時から始めて・・・

――あ、それは意外でしたね。ピアノの方が全然最初なんですね。しかも自らすすんで。

長龍郎:父はピアノのことはよく知りませんし。でも、ぼくがもう大きくなってから、父の唄本が並んでいる中にコールユーブンゲンとか楽典の本を見つけたんです。なぜ持ってるのか聞いたら、(三世)長十郎先生の曲が「創作邦楽研究会」の時にあまりにも難しくて、それに先生に「お前こういうのも勉強しとけ」って言われたそうで。だからぼくがピアノをやりたいって言ったことに、「あ、これはもしかしたら遠回りかもしれないけれど、こういうのをやらせといても損はしないんじゃないか」って思ったのかもしれませんね。

――で、そのピアノの教室に通って、その中で作曲もしたんですか?

長龍郎:そのヤマハ音楽教室にJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)っていうのがありまして、それを目指して当時みんな作曲もやってたんですね。それで、小学校の2年か3年の時に、ピアノを習っていた先生にあなたもやりなさいって言われて。どうやって作ったらいいのかもわからずピアノの曲を作り始めて、ま、楽しいとは思わなかったですけど、嫌ではなかった。JOCに応募してみたら、東京大会でぼくは終わっちゃったんですけど、それ以来「中島くん(長龍郎)は作曲を勉強した方がいい」と言われて作曲の先生について習うことになったんです。だからって理詰めの作曲法を習ったわけではなくて、先生はぼくの作ったのを見て「このメロディーをもう少し展開すれば」とか「伴奏形をもう一工夫してみては」とか言うくらい。今でもぼくのウイークポイントなんですけど、A-B-Aの3部形式の再現部に戻っていくところが下手だってよく言われました。当時変な曲いっぱい作りまして・・・『夜泣きラーメン』とか。今も同じなんですけど、ぼくは曲名を決めてイメージを湧かせるタイプなんで、曲名を決めるまでがものすごい時間かかるんです。ある夜、作曲しなきゃなあとピアノに向かって何も書いてない五線譜を目の前にして考えていたら、チャルメラの音が聞こえてきて。で、「あっ題名は夜泣きラーメン、主題もコレ(チャルメラの音)だ!」って作ったんです。それから駒沢公園に当時あったカンガルー車の曲とか、『飛脚』っていう曲とか。

三味線で行くと決めた頃

――それはいつぐらいまでやってたんですか。

長龍郎:それは小学校の5年ですかね。作曲の先生に直しに直されて「こういうふうにやらないと、審査員の先生受けしないわよ」って言われて、それが自分の中で、ぼくが作曲するのにぼくの作曲じゃなくなっているような気がしたり、あと曲ができなくて苦しくて思い詰めちゃったりもして、楽しんでやっていた作曲なのに、これはもうやめちゃった方がいいかなって思って、やめさせてもらったんです。で、作曲をやめた頃に、ちょうど三味線を始めているんです。盲腸になったりいろいろなことが重なってポコっと暇だった5年生の8月末に「今藤会」っておさらいがあって、見に行ったら貴史くん(政貴)とかみんな子どもたちが唄ったり弾いたりしていて、長唄って大人がやるものだと思っていたのが、子どもがやるのもアリなんだと思って、やってみようかなと。

――三味線を始めてからは違和感はなかったですか。

長龍郎:なかったですね。今藤綾子先生のところにお稽古に伺いまして。

――ピアノはまだやってらしたんですか、その時も。

長龍郎:やってました。最終的には高校3年までやったんです。綾子先生は本当は止めさせたかったんでしょうけど、直接はおっしゃらなかったですね。ぼくが長龍郎ってお名前頂いたのが高校2年のときなんで、そっちでやっていくのは決まっているんですけど、ここまでピアノ頑張ってきて、大学に入ったら今ほどは出来なくなるだろうと思ったから、ぎりぎりまでやってました。綾子先生には内緒で。

――ピアノをなさっていた時はピアノの方で行こうって気持ちはなかったんですか。

長龍郎:いや、ありました。中学にあがったくらいまでは、間違いなく自分の夢はピアニスト。なりたかった。発表会が大好きだったんです。

――それだけピアノをやっていた人が三味線にシフトしていった、それはどうしてなんですか。

長龍郎:それはですね、中学のときのヤマハの発表会でベートーベンのソナタを弾きまして、自分としてはそこそこ弾けたなと思ったんですけど、その時にぼくの2、3歳下でものすごく上手い男の子がいて、ショックを受けたんですね。世の中にピアニストとなるために生まれてきた人っているんだなって。その男の子っていうのは横山幸雄さんなんですけどね。ぼくが弾いた同じピアノで弾いているのに、全く違う音が聞こえてくる。

――ああ。

長龍郎:それで諦めたんですが、あの時の衝撃っていったら、三味線で言いますとね、ぼくが長唄の三味線のプロとしてデビューさせていただいた当時、先輩方たくさんいらっしゃるんですけど、横に並んで弾いていた杵屋栄八郎さんに初めてお会いした時のカルチャーショックと双璧ですね。20歳前後だったんですけど、その時ぼくの一つ上に栄八郎さんが座っていて、ぼくの一つ下には忠一郎さんがいるわけですよ。なんだこの両側の2人は、と。どんなに速く弾いてもヘコたれない。で、栄八郎さんは、速く弾いたことを先輩に言われると「イヤ長龍郎さんが速く弾いたもんで」って人のせいにして知らん顔して(笑い)。自分が速く弾いたのにね(笑い)。片や忠一郎さんは舞台の合間に「休みの日って何やってます?」って訊くんですよ。「何かなあ、ボーッとしてるかなあ」と言うと「ええっ、なんでですか?」って言うわけですよ。「練習しないんですか?」って。だから「あれ、雅輝くん(忠一郎)は?」って訊き返したら「ぼくは一日やってますよ、みんなそうなんじゃないんですか」なんて言われて。ぼくはその2人に挟まれて、はじめはとんでもないと思ったけど、今考えたらいい人達に挟まれたお蔭でこりゃあよっぽどやんなきゃ駄目だって思いましたから、良かったんです。真横っていうのは、またビシビシきますからね。

――音楽的には、ずっとピアノをやってきて急に長唄三味線に移行して抵抗はなかったんですか。

長龍郎:なかったですね。綾子先生に感謝しなきゃいけないんですけども、お稽古始めて最初1、2ヶ月は綾子先生がチンとかツンとか言わないでドレミで説明してくださったんですね。それですんなりいったのかもしれません。すぐに口三味線にシフトしちゃったけど。それと、三味線の音っていうのは家で鳴っていたので、曲は知らないんだけど、メロディー型は身体には入ってきていたように思います。

三味線曲を作り始める

――三味線を始めて、当面は当然覚えなきゃいけないことがいっぱいあるから、作曲なんて思わないわけですよねえ?

長龍郎:はじめて三味線の曲を作ったのは藝大の2年のとき。一つ上の先輩方から大学での「作曲発表」を、ま、後輩ですから言われるままにいろいろお手伝いしました。それが最初です。それで翌年自分の作曲発表になり、『ある夏の昼下がり』っていう曲を、うちの母親に歌詞を書いてもらって作りました。唄がひとり、三味線は僕と、あともうひとりは低音三味線で。ちょうど買ったばっかりの真新しい低音三味線があって、これを使ってやろうと思って。低音ってのは普通は本手よりもリズムも手も少ないものなんですけど、嵐の情景の所で本手と同じリズムで打合せしたりとか。10分くらいの曲でしたけど。

――そういう意味では、学校の中とはいえキャリアの割に作曲は早く始めた方ですよね。

長龍郎:そうですね、で、大学卒業して間もなく、上七軒の「北野をどり」で、政太郎先生から「君、一ヶ所低音付けてくれないか」とおっしゃっていただいた。「どうやったらいいんでしょうか」「まずは思う様に作ってきて。作ったら家に来て」。で、持って行くと「うーん、これでもいいけど、あんまりおもしろくないね」と。で、なにしろおいしく作らなきゃいけないと。「本手とハズすのもいいけど、ハズし過ぎると今度は低音ばっかり引き立っちゃうし、本手と同じようばっかりだと詰まらないしね」って、その時ここはこうした方がいい、あそこはどうって添削を受けて、それが仕事としては最初ですね。それから、先生が頭でやってらした「板橋おどり」の曲のエンディングを「何を作ってもいい。長唄じゃなくてもいい。長唄でもいい」って任せてくださって、3拍子で唄は完全に洋楽の「歌」で作ったんですね。「何をやってもいいって言ったけど、これはちょっとやり過ぎたかね」って笑いながら、ま、許していただいたりして。
僕もみなさんと同じく、政太郎先生には作曲の機会、勉強の機会をいただきました。作曲の合宿もしましたし。先生の水上のマンションに、僕と、忠一郎くん、政貴くん、栄吉さんとあと何人かでお邪魔して。でも昼間は政太郎先生が「お茶飲みに行こう」。夜は「トランプしよう」。「政太郎さんいつやるんですか?」「いや、気が向いたとき」。で、やっと作り始める。その時に政太郎先生の様子を「いかがですか?」って見ると、う~んって渋い顔なさっているんですけど、唄の節だけ出来てるんですね。「唄は出来ているんですか?」「うん、ぼくが作るここのところね、唄がおいしくないとダメだから。」「え、どういうことですか?」「唄を作ってから三味線をはめ込むんだよ」。政太郎先生って本当にすごくおいしく唄をお作りになる。ぼくはどうも唄をおいしく書けないんですよね。どうしてもぼくの曲は器楽的になっちゃって、ジャカジャカやっちゃって。でも自分の中で最近どうもそういうのがだんだん減ってきたというか、ジャカジャカする効果ってあるのかなって思うようになってきて。三味線の曲なのだから三味線が引き立つ曲想っていうのも、もっと作らなきゃいけないしなあとも思います。

――なるほど、どうやら創邦に入るのは違和感ないかんじだったんですねえ。

・・・後篇につづく

戻る

創作Q面 創邦11面相
ページトップへ

創邦21

創造する 邦楽の 21世紀