トップページ > ヨミモノ > [創邦11面相] 米川敏子篇 ~しなやかで つよくて~ 前篇

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創邦11面相

笛吹き同人福原徹が活動中の10人の仲間を巡る旅、題して創邦11面相
今月は半蔵門のホテル・グランドアークに米川敏子を訪ねる。

米川敏子篇

しなやかで つよくて [前篇]

米川敏子A・B・C?

米川敏子:今日は譜面も持って参りましたが・・・こんなぐちゃぐちゃなのをお見せしてもいいんでしょうか(笑い)。これはチェンバロとお箏のための曲(『彩の響』)ですが、チェンバロって調弦がすごく難しくって。

――ああ、昔のね、平均律じゃないんですね。

米川:古楽器ですものね。まあ弾けもしないのに作るという・・・。ビオラとお箏のとき(『風彩(かぜあや)』)も大変で、まず移動ドで書いてそれを直してというかんじで。でもだいたいは作曲というとテープに入れて、好き勝手弾くんですよ。テープを回していて、自分がそのとき思い浮かんだことをバーっと弾いていって、後から聞き直して、それをモチーフにして広げていくというやり方です。その前にまず調弦を考えて。調弦が決まると曲も決まってきちゃう・・・音域ですよね。音域をどこからどこにするか。でもね、そうするとやたらと調弦替えをしなくちゃいけなくなったりするわけですよ。間に音がなかったりして、(琴柱を)上げて音を作って、下げて作って。お箏ってそれが不便でね。

――米川さんはたくさん曲を作ってらっしゃるんですけど、ご自身が、まあお家柄ですからお箏は小さいときからなさっていて、で、ある時から曲を作るじゃないですか。きっかけって何かあるんですか。

米川:たしかビデオの企画ですね。30年くらい前、私は30代だったんですけれども、景色・・・映像にいろいろ音をつけていくというので、海と、秋だったか月だったかの2箇所を、(藤舎)名生先生とか(藤舎)呂船先生、政太郎先生とすごい方々がやってらっしゃるところにお箏が混じった。それがたしか最初です。

――それまでは作曲の機会はなかったんですか。

米川:もちろん。依頼もありませんし。たった一回、小学生の時にうちの会で弾くとかそういうことで作ったきりで。

――お母様の先代敏子先生はたくさんお作りになってらっしゃるじゃないですか。そのお手伝いとかはなさらなかったんですか。

米川:したことはないです。全然。私は遅い時の子どもですし、彼女が盛んに作っているころは知らないんです。ただ、大学を出て、ほんのちょっとなんですけれども、乗松明広先生に作曲の基礎的なことだけ習いに伺ったことはあります。一応楽典みたいなものはやってはいましたけども、五線譜の修業はしておりませんでしたので、それも兼ねて。母も、いずれは作曲しなきゃいけないだろうと思って私を行かせたんだと思うんですけどね。でも本当に作曲のやり方とかは、先生方のものを弾かせていただいて「ああこうするのか」と思ったり、母の曲を弾いて「そうか」と思ったり。まあだいたい母の影響は強いですけれど、でも音階的には全く母の作っているものとは違うので、「どうしてそんな音が出てくるのか」って言われるんですけれども、人間は自分が聞いた音を必ず書くっていうでしょ、そういうことなのかなあって。

――作曲しようということになったのはむしろその機会があったからと。

米川:そうですね。まあ今でもそうですよね。創邦や他の演奏会でだんだん自発的にも作るようになっていますけれども。作曲ってコツも何も今もわからないんですけど、必ず私がすることは、自分に思い浮かんだものを書くと。それで、瞬間的にひらめいたもので作るというのが私のやり方で、じっくり考えたり作り直したりというのは、ないですねえ。

――米川さんはものすごく忙しい。お箏の世界の中だけでも十分忙しいんだけど、日本舞踊とか長唄とか、お箏の世界ではない方の邦楽の世界においても、先代の敏子先生もそうですけどたいへんにご活躍されていて。その忙しさでも創作をするっていうのは、たいへんなことだと思うんですよね。

米川:だから、時間はかけない。ひらめきで作る。でも私、皆さんそうだと思ってて。細かく直されたりして作る方はいらっしゃるでしょうけれども、でも、その「できる」っていう瞬間は一瞬でしょ?

――そりゃそうですよね。思いつくのはね。

米川:ねえ?もう一年中ずぅっと考えていてできるんじゃなくって、すごく元気な日で、パアッっといろいろ浮かんできちゃう日がたまたま曲を作れる日であったら、もう一瞬でできちゃうわけでしょ。

――そうか、そうすると忙しくても作曲できないことはないというかんじですね。

米川:うーん・・・でも私の悪い所は、最初は一所懸命作ってて、終わりに行くと時間切れになってしまう傾向があって、いつもいけないと思ってるんですけど(苦笑い)。最後盛り上がらなくってね。

――米川敏子っていうのは、ぼくらが気付かないだけで実は3人くらいいて、敏子A・敏子B・敏子C(笑い)っていうのがいるんじゃないか。だっていつ見ても同じ顔されているでしょう?すごいなあと思うんですよ。嫌な顔とか、なさらないでしょう?

米川:イヤイヤ、そんなことありませんけど、能天気なんですよね(笑い)。もうねえ、すっごいせっかちなんですよ、のんびりそうに見えるらしいんですけど。「すっごい乱暴な運転してる人がいるけど誰だ?米川さん!?」って驚かれたこともあるくらい。そういうとこで発散してるんでしょうね、きっと。

――ああ、飛行機のパイロットになりたいとおっしゃってましたもんね。

米川:そうなの。飛行機で飛んでいると、上手く降りられそうな気がするじゃないですか。ダンッって降りる方がいいっていうけど、ダンッて降りるよりも、ちょっとひゅわんっていう人いるじゃないですか。ああいうふうにね、操縦してみたい。

――ジェットコースターとかはどうですか?

米川:(即座に)嫌い!嫌いです。

――そうかあ。でもほんとうに僕は米川さん見ると見習わなくちゃなって思うんですよ。

米川:徹さんにそんなこと言われちゃったら(笑い)。

「創作邦楽研究会」からのご縁

――では創邦にはどうして?創邦は自分から作らなくちゃならないわけですけど。

米川:もちろん母が「創作邦楽の展示」(※)で一緒にやらせていただいていて、そういう繋がりがあるからこそですよね。私にしてみれば一番多感なころに「創作邦楽研究会」ができたわけですよね。そのころに母に付いて行き、あの最初のすごいメンバーをね・・・先代の今藤長十郎先生や先々代の呂船先生、それから常磐津英寿先生、清元梅吉先生。淨貢先生や政太郎先生もお若くて。もう、すごい才能の渦でしたね。皆さま才能があるわけで、すごかった。それをいつもナマできいていたというね。

――夢のような。

米川:下浚いに行くじゃないですか。で、ずっと何時間も聴いているでしょ、先代の長十郎先生は、ものすごく時間をかける方。録音するのでも何でももう絶対ひとつでもおかしかったらもう一回やり直し。そうするとこっちは覚えちゃうんですね、その曲を。で、サビみたいなものすごく良い所があるでしょ、それがもう頭にこびりついて、家に帰ったらもうぐるぐるぐるぐる回って眠れないんですよ。そういう生活をしてた。だから、その時代の音楽で育ったっていうところはあるんですよね。でも作ってみるとそういうのは中々出て来ないんですけどね。

――今回の創邦に声をかけられたときも、当然それが頭をよぎるわけですよねえ。

米川:そうですよね。そのときはまだそんなに作曲していないし。ただメンバーが、私は年長から三番目で、ほかはみんな若い方じゃないですか(笑い)。だから、ウッと思いましたよ、それは。でもまあ政太郎先生におっしゃっていただいたから、じゃあがんばろうと思って、今日に至りました。

ひらめき・感覚・感受性

――依頼されて作るものは当然それに合わせていかなければならないんですけど、その一方で創邦とかだと自分の好きに作れるわけですよね。逆に言うと何か考えなきゃいけない。頼まれて作るものとご自分で自発的に作るものとの違いって、何かありますか?

米川:私はたとえばお頼まれしたといっても、舞踊などで制約があってっていうような曲はそんなにたくさんは書いたことがないのと、そういう時でも曲を優先して作っちゃうんですね、踊れるように作るとかこれじゃ踊れないとかいうのは自分でもわからないし。だから、どっちにしろ自分の作りたい音を作って、構成も自分のやりたいようにやるだけだと思うんですね。感覚としてこれは創邦だから型破りしちゃおうとか、そんな風には思わないですね。

――音優先ですよね。テーマとか主張とかいうのよりはもっと感覚的な、手から来るかんじなんですか。

米川:たぶんね、私は物を深く考えないタイプで、ほんとにひらめき人間なんですよ。

――でもその「ひらめく」っていったって、その手前があるじゃないですか。読んだ物や聴いた物や。そういう、米川さんの創作の原動力になっているものって、・・・

米川:原動力・・・なんだろう、何が元なんだろう・・・本能?(笑い)

――たとえば今お休みが一週間ボンとできたら何をなさいますかねえ?

米川:一番やりたいのは、片付けもの(笑い)。片付けものはしたいけれども、でも一週間じゃ済まないから、・・・やめておこう(笑い)。じゃあ、飛行機の操縦かな。何かそういう憧れているものに、自分でいいと思っているだけで実は何も挑戦していないわけですから、そういうものに一歩足を踏み入れてみたい。潜ってみるとか。

――そういうのがたとえば曲に結び付いたりっていうことはないんですかね?

米川:イヤ、あのー、どうしてイメージを湧かしに現地に行って見て来ないの?ってよく言われるんですけど、そんな時間はないのでねえ。『風彩』を作るときにね、風を書けって言われたの。風?ってどうするの?って言ったら、風の写真をいっぱいくれたんですね。そういうのを見ていると、自分の日常と全然違う世界にすぐ入れちゃって、それでイメージが湧いちゃうんですね、たぶん。もちろん現地に行くというのは、そこの空気に触れるということでプラスアルファはありますよね。どこかに体で感じたものが残っていてね。

――もしかしたら、米川さんは実際そこに行ったら強すぎちゃうぐらいかもしれないですよね。すごい感受性が強いんでしょうね。

米川:感受性は、たぶんそうなんでしょうね。

――それがまた見掛けと違う。そういうことあんまり感じない人かと思っちゃうけど、違う。

米川:イヤイヤ「感受性が強い」って言ったのはね、あのー・・・、習ってないわけですよ。手取り足取りとか向き合ってお稽古してもらったことが一回もない。

――先代敏子先生に?

米川:はい。師匠は母ってことにはなっているんだけど、母に習ったことは全然ないんです。ある時そんな話を人にしたんですね。・・・家の中で弾いていると、遠い所から「違う!」って声が飛んでくるわけですよ。子供の時ね。で、ああ違うのかって学ぶわけです。小学校の5年だったか、唄でね、“ふりおとし”ができてなかったんですよ。そしたら「なんでできないのか」って言うわけですよ。だって何も教えてくれてないでしょ、そこで力を抜きなさいとかそこで喉をどうするとか、何も。彼女は、自分は子どものときから何でも弾けていたそうなので、できないっていうことの理解が全くできない。できないことがおかしいように「どうしてできないの?」とグサっと言うわけです。で、「ではどうやってそれを克服しましたか?」とその人に聞かれたんですけど、克服って、そのために何かしたりそのためにすごく努力した覚えはないから、どうにかやったんでしょう、って言ったんですよ。そうしたらその方に「感受性が強くなければ習わないでできるなんてことないですね。」と言われて、それで、はぁそういうものなのかなって思ったんですけど。

――ははあ。

米川:だから、すごい修業をしたとかね、撥を投げつけられたとかね、そういう方の話を聞くとうらやましくて。なんにも教えてくれない、自分が吸収するしかなくって、もうすごく観察してて、自分の力で習っていったわけで。芸は盗むものというけれども、盗むも何もないですよ。母も、祖父にも一回も習ったことがないって言うんですよ。でも天才少女だから、母はそれでいいんですけど。

――その中で盗んでいくということですね、できる人は。米川さんも優秀なんですね。

米川:いいえ、母ほどは・・・母はすごかったですよね。時代が違うし、子供のときからもう、毎日お稽古日みたいなかんじじゃないですか。母の稽古はさすがに週に2日でしたからね。子供の頃、週に2日音が聞こえてくるだけなんですが、勉強してようが何してようが全部聞こえてくる。それで聞いて覚えて。聞き覚えですね、全部。あとは付き人として母に付いて仕事場に行くようになってからは、録音しているときなんて、弾いてるすぐ傍で見てられるわけだから、どうやって弾いているのかなとか、そういうことは見てましたね。で、わたしは一生こんなふうには弾けないだろうといつも思ってた。古典芸能というと皆さんちゃんと修業をされてね、子供さんもそういうふうに育てるじゃないですか。でもうちは全然そんなことなくて、お箏弾きになれと言われたこともないし。そのうえ姉が家元を継ぐと。だから私はお声をかけていただいたものに全部参加して、勝手に生きてたわけですよ。それが突然姉が倒れてしまったから、慌てましたよ。でもどれも削らずに睡眠時間を削り、お蔭様でなんとかやっております。丈夫な体に感謝してます(笑い)。

※「創作邦楽の展示」・・・創邦21がその衣鉢を継ぐ「創作邦楽研究会」では、「創作邦楽の展示」として同人の作品を発表し、好評を博していた。

・・・後篇につづく

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