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リレートーク 23走目

2020.06.27(土)

こんにちは。今藤政貴です。
前回のリレートークは中途半端なことになってしまいました。
忠一郎さんからの質問「コロナ後の我々邦楽界の人間は、どんな活動をしていったらいいのでしょうか」への返事のつづきを書きます。

 

前回 述べました通り、邦楽界では少なくとも年内、 ほとんどの舞台が休止状態になりそうなので、当分は事実上インコロナの状態です。
個人事業主のための給付金などもあり、それはありがたいことなのですが、休職に近い状態が10ヵ月以上にも及びますので、かなりキツいです。
現状、もっとも心配なことは、この状況がずーっと長引き、廃業者が続出してしまうことで、
この危機的な局面で邦楽界の人間が 邦楽を生業として生きていくために、
いま流行りのテレワーク演奏や、ライブ配信なども試みられつつあります。
それらは、いま可能な表現として、あるいは今後の活動を広げるための試みとしても、有意義ではありましょうが、今のところ経済的には大きな意味を持ちません。
なにしろ質の高い視聴覚媒体は世にあふれていますし、その道の専門家もあまた いますので、それに伍して収益を得ることは、容易なことではありません。
というわけで、当面の課題に対する有効な手だては なにも見出せていないわけですが、それでも地道な努力が きっと将来の邦楽を豊かにするのではないか、そう信じて、歯を食いしばりながら、いろいろと模索を続けるよりなさそうです。

 

 

さて、そしていつかはアフターコロナと意識される時期が来ることでしょう。
そうなったときに、ぼくらがすべきは まず一度は冷静になることなんじゃないかと思っています。
いま、ぼくは正解がわからず立ち尽くしています。右往左往さえできていません。
たぶん大概の人たちも、立ち尽くすか、右往左往しているんじゃないでしょうか。そういう状況のなかで、アフターコロナの行動様式とか生活様式のスタンダードが語られつつあります。
今後の展望は当然必要で、ぼくもいま まさにそれについて考えているわけですが、
いまの流れに引きずられ過ぎるのは危険な気もしています。現在の空気のなかで妥当な判断が得られるのか?
たとえば、
人と会うときには必ずマスクせねばならないとか、
帰宅するたびにアルコール消毒すべきとか、
せまい部屋にすし詰めの飲み会は避けるべしとか、
回し飲みなどもってのほか、
みたいな新スタンダードが、アフターコロナ=ウィズコロナの時期だけでなく、アフターコロナ=ゼロコロナの時期にも常態化しそうで、ちょっとした恐怖を感じるのです。
いま、私たちは新型ウィルスをうつし合わないことをテーマにいろんな活動を控えています。おそらく現状では必要なことなのでしょうが、
よく語られるコロナ後の行動様式にも、当然とは言え、その発想が引き継がれていて、
まるで人々が同じ空気を吸うのが悪いみたいなニュアンスを感ぜずにはおれません。
いったいそのスタンダードはいつまで続くのでしょうか。
仮にゼロコロナ期になっても、新型インフルエンザの例をとるまでもなく、未知のウィルス感染症は数限りなく出現します。 治療薬のない新型ウィルスなり細菌なりの感染症が流行するたびに、同じようなことになるのか。あるいは、予防的な意味で常にアフターコロナ スタンダードが"常識"となるのか。

 

となると、満員の聴衆の前で演じることも、舞台の上で 大勢の演者が所せしと躍動することもできなくなってしまうのでしょうか。
ぼくらにとって、やはり舞台の仕事は本当に大切です。邦楽界の人間として、ぼくは舞台を大事にしたいです。
このご時世、視聴覚媒体づくりの努力も必要ですし、今まで以上の素晴らしい作品がきっとできることでしょう。
映像には映像ならではの素晴らしさがあります。
それと同じように、
生の舞台には生ならではの特別な魅力があります。
まず舞台は、演者と観衆・聴衆との統一物です。たとえ、元の内容が一緒でも、演者のコンディションが同じとは限りませんし、観客は毎日入れ替わります。
その演者たちと観客が、同じ時間・空間を共有することで、
今日だけの 一期一会の作品(舞台)が出来上がっていく、そういう醍醐味は、舞台のほかではなかなか味わえません。
たとえば、そこにいるだれもが 息を吸うこともためらうような静寂や緊張感。
たとえば、小さなアトリエにお客さまがギュウギュウになったときの熱気、高揚。
さらには、取り返しのつかないがための恐怖、失望、落胆などをひっくるめてそれを共有できるのは、生ならではです。
しかし、いまは満員でもスカスカの客席で、お客さまは声を立てて笑ったり、歓声を上げることも憚られる状態です。
また、舞台上でも演者同士がソーシャルディスタンスを守らなくてはならなかったり、声を張り上げることもできない、という状況でパフォーマンスが成立するのでしょうか?
制約がかかることで、工夫がすすみ、芸術が進歩するということは歴史的によく見られることで、事実 いまもいろんなところで工夫がなされ、なんらかの進歩もありましょうし、努力は続けるべきではありましょう。
しかしそれにしても、現状の制約は尋常ではありません。
危うし、舞台芸術。

 

話を戻します。
いま書きつつある文章を読みかえすと、冷静さを欠いた自分がよく見えます。
敵が見えていない、と言いましょうか。
ぼくだけでなく、いまの新型コロナに対する反応は、総じて客観性を欠いたものが多いように思います。

 

いくら舞台芸術が大切とはいっても、お客さまの健康を損なうようなことがあっては元も子もありません。一方、市民の文化的生活が失われてしまうがための心身のリスクも無視することはできません。
また、素人考えの一般論を申せば、
ウィルスのうつし合いを避ける、という基本的な生活の指針も極端化や長期化すると、長い目で見れば むしろ危険にさえ思えます。
「ウィズ コロナ」とは少し意味合いが違いますが、
もともと、人類(というか生物)は「ウィズ ウィルス、ウィズ 細菌」で生きてきたわけで、「うつし合」うことで、免疫力はじめ いろんなものを得てきたはずです。言うまでもなく、いまの潔癖的な生活様式はそういう機会をも減らしていることになるでしょう。
今後の社会活動、そして我らが舞台活動がどうあるべきかを判断するにあたっては、
今回の新型コロナの例外性や危険性がどの程度だったのか、
どのような対策が有効であったのか、
自粛的な生活が社会にどのような影響をもたらしたか・・・などといった観点からの 客観的な評価が必要となってきます。 あと1年とか2年とかくらい経ったとき、このコロナ禍について どの程度の正確さで総括できるようになっているのかはわかりません。が、少なくとも今よりは情報が揃っているはずです。
そのあかつきに、少し冷静になって客観的かつ総合的に将来を考えることが肝要なのだと思うのです。
それまで、ぼく自身は少しでもマシな仕事ができるよう 努力をしつつ、なんとか生き延びなくてはなりませんが

 

まとまりのない長文、御免ください。

 

最後に、金子さんに質問。
金子さんの「こころの故郷」はどこですか?

 

今藤 政貴

 

著者近影
5ヵ月ぶりに髪を切りました、
事情で染めるのはやめました。

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