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第13回 創邦21公開講座「創作のキモ」レポート

シリーズ名曲を聴く①その2
しづかな流 (昭和34年)
ー ぼくらが与えられた影響を語ろう

金子 泰

 昨年からの宿題をやっと提出できたような気持ちである。

 創作のキモ第13回は、「昭和の名曲を聴く」シリーズとして、昭和34年初演の「しづかな流」を取り上げた。
 この作品は三世今藤長十郎師と松原奏風(四世清元梅吉)師の合作であり、このお二人は昭和39年から始まる「創作邦楽研究会」の提唱者と兄貴分的参加者でいらした。創作邦楽研究会の流れを汲む創邦21の同人にも長十郎師や奏風(梅吉)師から有形無形の影響を受けている者が多い。そしてこの作品を「創邦21の源」と目する同人もいる。しかし、そのクオリティの高さほどには知られていない、いわば知る人ぞ知る名曲である…。
 そうしたことからこの創作のキモで「しづかな流」を取り上げたのだが、実はそもそも昨年3月開催の回として企画されていたことだった。それが、新型コロナ感染拡大防止策によるイベント自粛要請が出されたことで延期となり、演奏と解説による「創作のキモプラス」と形をやや変えて、東京都文化プロジェクトの「アートにエールを!ステージ型」に参加して動画配信するに至ったのだが、実際に演奏してみると(および、その演奏を聴いてみると)、もっと語りたい欲、語らずにはいられない気持ちが何人もの中でフツフツと湧き出てきた。
 そこで、「ぼくらが与えられた影響を語ろう」という切り口で、改めて「しづかな流」の回を設定したのだった。

 これまで「創作のキモ」では、発表者が一人(場合によっては複数)いて、ききて役とともに進めていく形式が多かった。
 今回は、清元栄吉と今藤政貴が、それぞれに強いて役割を振るならば〈中心的な発表者〉と〈ききて〉ではあるが、その枠に収まることなく二人の掛合いによって話が進められ、同人が次々に登場して「しづかな流」と自身の曲について話をし、栄吉が適宜その解説もし、三味線2丁あるいは3丁での入り組んだ合奏を解きほぐしてから組み立て直して実演もした。じっくり・くっつりした味は薄かったが、いろいろあって動的であり、催しとしてのわかりやすい面白さは、いつものキモよりもあったかもしれない。

 今回のような方法は、下手をすると「群盲象を撫でる」ことにもなりかねないと思うのだが、この名曲から受けた影響が結局のところその「創作のキモ」でもある「ことば(朗読)と音楽」「三味線2丁の絡まり具合」という二点におおよそ集約できたことから、うまく機能できたようである。
ことば(朗読)を取り込んだ作曲という点については、
・共同作曲「大岡信 折々のうた から」(金子泰構成)より、今藤美治郎と米川敏子作曲部分
・今藤長龍郎作曲「海女の后」(海津勝一郎作詞)より
・今藤美治郎作曲「鶴―やくそく―」より
複数の三味線の使い方という点については、
・清元栄吉「etude」(実演:清元栄吉、松永忠一郎)
・今藤美治郎「鶴―やくそく―」(実演:今藤長龍郎、松永忠一郎、清元栄吉)
そして、音づかい、演奏法などトータルで影響を受けた例として、
・今藤政太郎作曲「ののはな」(谷川俊太郎の詩による)
これらについて、音源も聴いていただきながら制作した同人がお話をした。
 また、質疑応答では、「邦楽の唄が五七(あるいは七五)調であるのはなぜか」というご質問もいただいた。政太郎は「それは慣れであるから。そしてナニナニヤ ナニガナニシテ ナニトヤラという日本の詩歌の音数は一見奇数であるけれども、その実、息継ぎをしたり音を伸ばしたりがあるので偶数拍子(二拍子あるいは四拍子)なのだ」ということを言った。重ねて質問が私に「作詞をするにあたり、そいうった五七という音数の形式を不自由な制限と思うか」と来た。その場では、「五七あるいは七五で全てが構成されるわけではない。むしろそこから外れた破調や字余り字足らずをどう入れていくかを考える」程度にしか言えなかった。栄吉が「補足すると、日本語の韻文では韻を踏まない(=脚韻を踏まない)。それと五七というのは関係あるのでは」と述べた。
 別の御出席者からは「「しづかな流」は身近なことを唄にしていて、その世界にすーっと入っていくようだった。いろいろな方のお話が聞けて、実演もあって、面白かった」という感想もいただいた。
 緊急事態宣言下で感染者数も増えている中でも行って(行えて)良かったと思う。何よりそんな中でもお越しくださった方々、ご協力くださった方々に深く感謝申し上げる。

 追記。
 先の質問について、その後も少し考えた。
 私が知っている少々の英語詩と仏語詩、学校教育で習った漢詩と比べると、日本語の韻文詩は、たしかにaa/bb/aaとかa/b/b/aなどというような脚韻は踏まない。しかし頭韻は稀ではないし、同じ段の音(たとえばイとキとシと、というような)をことばの中に散らすのはよくある手法だ。
 漢詩については平仄がわからないのでさておくとして、英語や仏語、とくに仏語詩ともう一度比べてみる。近現代の仏語定型詩で一般的なのは12音綴、古風になれば10音綴、と偶数が多いように思う。12音綴の詩は、6音で区切れがある。対して日本語は五にしても七にしても奇数である。なぜ奇数なのか。
 おそらくこれは日本語の母音に目立った長短がないからではなかろうか。それゆえに五七(七五)調の伸ばし音や息継ぎによって音の長短を作り出しているのではないかと思う。
 五と七を主に使うが、七音と一口で言っても、3+4の時もあれば4+3の時もある。
 歌謡は案外自由なのではないかと思う。今レポート上にてはこれぎりとするが、もう少し考察を続けてみたい。

(2021年7月17日 於 伝統芸能情報館3階レクチャー室)

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