夏のおもいで 創作Q面 創邦11面相

ヨミモノ

第11回 創邦21公開講座「創作のキモ」レポート

金子 泰

長唄における〈はまり〉と〈ふしづけ〉の基礎

 前回の「創作のキモ」レポートで、私は当講座の在り方や主催者としてまた講師としての私たち同人自身の不安定さを、

  公開「講座」を、邦楽演奏家を講師として開くことの意味や意義は何か。
  何を誰に伝えるのか。そしてどういうものであるのがよいのか。
  「講座」と言ってしまっていいのか。

と記した。これは前回キモのみならず、ずっと以前から感じていたむずがゆさのようなものであったのだが、今回それへのある種の決着を見たように思う。
 しかしそれと同時に、今回のような形式――聞き手を置かず講義形式で、ひとりで淀みなく話す。否、話すというより「教える」――は「創作のキモ」の定型とはならないだろう、とも感じた。
 もともとこの「創作のキモ」は、名作といわれる作品を取り上げて、どこが・どんなふうに良いのか、その作品の「キモ」を創作者の目で解剖し提示することを意図して始められた企画である。今回はそれへのプレ・レクチャーの意味合いもあったかもしれない。

 さて本題に入る。 「~の基礎」と銘打たれた第11回「創作のキモ」であるが、レジュメの目次に掲げられている項目を見ると、たいへんに親切な、そしてよく考えられた内容であることがわかる。

Ⅰ はじめに
Ⅰ-1 見取図
Ⅰ-2 ふしづけ(広義)の全体
Ⅱ <はまり>の基礎
Ⅱ-1 <はまり>と<リズム>の関係
Ⅱ-2 <はまり>のいろは
Ⅱ-3 文字の“なわばり”―音の進行と<はまり>の関わり
Ⅲ <ふしづけ>のはなしを少し
Ⅲ-1 おもな原則
Ⅲ-2 いろんな工夫
Ⅳ 唄の<ふし>と<はまり>とか三味線の<手>とか
Ⅳ-1 やっぱり「ふっつり」はすごい
Ⅳ-2 汐汲クドキのハイライト「待たば」
Ⅴ 今日のキモ

 長唄のうたは、三味線の弾くのに合わせているのだか、いないのだか、どのタイミングで音を発すれば良いのだか、その道のプロはともかく初心者にとっては、感覚的になんとなくはわかっても、原理原則を自力で見つけることは難しい。それを整理して、原則と基本的な考え方・取り扱い方、およびその原則からのはずれ方の例を示したのが、今回である。
 講師である今藤政貴の話には、プロットとは別に、3つのポイントが見いだせられた。

 第一に、うたを三味線の手を基に説明するのでなく、うたも三味線もその支配下にあるところの「拍」との関係で説明したこと。またその「拍」をデジタルなピッピッというような点としてではなく、土地とか部屋とかいう広がりのあるものとして提示したことである。これにより、《スタンダードは1文字1拍、急く場合は1文字半拍(=2文字1拍)、たっぷりする場合は1文字2拍》という政貴の言う法則も、「ここはひとり(1文字)で1部屋」「ここは2文字でひとつの部屋をシェア」と具体的に可視化して、考えやすくなった。今回は言及はなかったが、もしかしたら「拍」の概念そのものに迫る考え方なのかもしれない。

 第二には、日本古来の韻文を構成する五音七音の「七音」の構成は、3+4と4+3という二種類の組合せが基本であると明示したことである。そして、偶数拍で進行する音楽に当てはめるために2拍目から出たり産み字を使うと説明したが、そもそも我々は「五七五」や「五七五七七」を、知らず知らずのうちに息継ぎや心の中で音を伸ばすことによって四拍子(?または八拍子?)で声に出しているのであって、この指摘は、長唄や邦楽にとどまらず俳句や短歌ひいては標語の類に至るまで、五七調・七五調と相対するときには何がしか役立ってくれそうである。

 最後に挙げたいのは、古典作品であっても作曲者の意図が(おそらくは)あり、はまりや曲節その他の要素を通じて作曲者に迫らないといけないという演奏者としての在り方、また作曲者もそのつもりで作らないといけないという創作する者としての在り方を言明したことである。『汐汲』の一部を例に挙げて、教わったものはそれとして、自身で作曲者に迫って行った考え方のプロセスを語り、「どう習ったかばかりではなくて、どうしたいのかだ」と言い切ったのは、演奏する人であり創作する人である政貴ならではであり、自身にも向けていたであろうが、会場にいた大勢の若い演奏家たちを多分に意識したメッセージでもあったろう。

 今この時代、邦楽をものする人も「語る言葉」を持たねばならなくなったようだ。「こういうものだから」「聞けばわかる」などと言っているだけでは、「あ、じゃあいいです」と遠ざけられかねない。言葉で伝えることもしなくてはならない時代なのである。尤も今回のような分析的で俯瞰的なレクチャーは僥倖の類であって、邦楽者の言葉・芸能者の言葉は、常に分析的である必要はなく、自身にとって真なるものを見つめて正直に言語化しようという意志の結果であれば良いのかもしれないと思う。ただし、高みから天の声よろしく語るのではなく、自身を危険にさらさなくては、会を開く甲斐がないし、第一聞いていておもしろくない。
 作曲をする、あるいはものを作るとき、たくさんの取捨選択をする。それは意識的な場合もあり、無意識にやっている場合もあるだろう。すべてを意識的にできるのかどうか、意識的であるべきなのかはわからないが、何かは語れる用意をしておくべきだろう。それによって、作者自身にも気づくこともあろう。つまりは技と言葉で示すことだ。この「創作のキモ」が、講師となった人たちをして、持ち味を全開にして自身にとって真なるものに対峙せしむる機会となることを期待する。
 なお約二時間もの間、政貴の横でずっと三味線を構え、話の合間に入れられた実演では、求められると即座に件の箇所を実に良い音、良い調子で弾き続けた長龍郎の腕の確かさも、特記しておきたい。

(2019年9月25日 於 アコスタディオ)

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