夏のおもいで 創作Q面 創邦11面相

ヨミモノ

第10回 創邦21公開講座「創作のキモ」レポート

金子 泰

2月21日(木)、六番町の紫山会館にて、創邦21の公開講座「創作のキモ」の10回目が開催された。 かねてより懸案であった昼夜開催を今回ついに試みたところ、平日というのに昼も夜も多くのお客様が見えてくださった。昼夜通しの方も多くいらっしゃった。お出でくださった方々に深く御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

【昼の部】 15時より17時まで
シリーズ長唄の替手②
 「替手そして本手の拵え方」

講師:今藤長龍郎
ききて:今藤政貴
   実演:今藤長龍郎、松永忠一郎

前回の「長唄における替手・上調子の構造 歌舞伎の影響と日本人の音楽的感性と…」(講師:今藤政太郎)に続き、長唄の替手についての考察。
図式化して言うと、西洋音楽では、曲の主旋律と副旋律はお互いの音を前提として成り立っており、同時に作られる。一方、伝統的な邦楽の曲は単旋律であり、まず本手が作られ、そこに、音を面白くするために、ひいては曲をおもしろくするために替手が付けられる。替手は後付けされたものであり、したがって一つしかない本手に対して替手は複数ありえて、その中から流儀や好みなどによって選んで弾かれている。
長龍郎は、幼少よりピアノをよくし作曲もしてきたが、三味線音楽を作る場合は、伝統的な邦楽の拵え方に準じているという。たとえそれが三味線Ⅰ、三味線Ⅱなどとパート分けした器楽曲であっても、まず一本通った主旋律を作り、次にそれをいろいろなパートに振り分けるのだという。
さて、そうした複数の替手にもそれぞれに拵えた人の思惑があるに違いないのだが、それらは似ているのか、違うのか。
替手の付け方を
A:音を面白く重ねる
B:音楽的に流れを増す
C:世界を重ね、補強または多重化する(これは前回の「キモ」で政太郎が述べた付け方)
と分類した上で、「越後獅子」を例に、現在割合とよく演奏される⑴今藤流の替手、⑵研精会系の替手、⑶歌舞伎伴奏長唄の代表格として堀留系の替手、を丹念に比較しながら、また要所要所で地歌にも言及しながら、検討した。
また、他の例として「三曲糸の調」の一部を演奏した。

【夜の部】 18時30分より20時30分まで
三味線音楽創作における調子替え
その意味と技術

講師:今藤政太郎、清元栄吉
   ききて:今藤美治郎 
実演:松永忠一郎、今藤長龍郎、今藤政貴(客席後ろから唄う)

三味線の代表的な調弦「本調子」「二上り」「三下り」について。
それぞれにその調子「らしさ」がある。それはどんなものか。また、「その調子らしさ」を演奏家・作曲家はどう捉えているのか。政太郎をメインに、したがって長唄をメインに話が進んだ。
本調子は、例えば物事の由来を語るとき、浄瑠璃由来のものの引用のとき、格式を出すとき、などに使われている。例として、「吾妻八景」の冒頭、「靭猿」の冒頭「それ弓矢のはじまりは」。
二上りは、楽器がよく響き、華やかでパッと広けた感じ。いい唄がつくことも多い。例としては、「元禄花見踊」、「靭猿」の「早やあらたまの」、「秋色種」の「夢は巫山の」など。
三下りは、本調子と比べて糸張りも弱く、サワリのつかない響かない音、またそれであるがゆえに情緒的な音になっており、クドキのような憂いや心情を切々と語るところ、その一方で洒脱さを出すところにも使われる。例として、「黒髪」、また「吾妻八景」では「しのぶ文字摺」など。
そして(ここからが本題なのだが)、三味線音楽は曲の途中で調子を替えることがままある。⑴先ほどのそれぞれの調子の「らしさ」を活かして、曲調や構成の変化を効果的に聞かせたり演出するためであり、⑵運動性(運指、弾きやすさ)のためということもある。 ⑴について、2つのパターンが見られる。
ひとつは、パッと替える場合。調子替えを強調し、場面の切り替えなどをくっきりと見せる。演出的効果が大である。例えば三世長十郎師の「旅」で、京に入った時の調子替え。 もうひとつは、気づかれないように替える場合。曲の中で連続性を保ったまま展開しようとするとき。例えば「君が代松竹梅」など。
さらに、これら三つの調子のほかに、「一下り」と、それを巧みに使った正治郎の「賤機帯」前弾きや「鏡獅子」クルイにも話は及んだ。そして政太郎の口太鼓(?)入りで、また福原徹も飛び入りしての「鏡獅子」クルイ~の実演。
このように一曲の中でいろいろに調子を替えるのは、三味線が音の響きの均一化を目指した楽器ではないからである、と栄吉が付け加えた。

◇◇◇ ◇◇◇

ポール・ヴァレリーは、散文と韻文を歩行と舞踏と言った。ある目的に向かって足を運ぶ散文に対して、韻文は舞踊のようにそれそのものが目的であるという。「創作のキモ」のことを考えるたび、私はこのヴァレリーの喩えを思い出す。
私たちはいつも「創作のキモ」を前にして不安定になる。公開「講座」を、邦楽演奏家を講師として開くことの意味や意義は何か。何を誰に伝えるのか。そしてどういうものであるのがよいのか。「講座」と言ってしまっていいのか(自分たちでそのように銘打ったのではあるが)。それらを一応収める考え方の一つが、先の喩えの中にあると思う。
もちろん、演奏家としての経験を基に演奏家・作曲家の視点から作品を分析して、なぜ名曲たりえているのかを示すのが「創作のキモ」の目的だ、ということはある。けれども、ある結論に向かって理路整然とまっすぐに突き進めばいいというわけではない(またそのようにして十全に話を進めていくこと自体も難しい)。
それよりももっと大切なものは、そこで繰り広げられる全てなのだろうと思う。講師・ききて・実演の、たとえば言葉遣いや言い回しの一つ一つであったり、口三味線の言い方、それを言いながら空で勘所を押さえる手つき、指示の出し方、楽器を扱う手つきや、弾かんとするときにガラッと変わる空気、音色、それをコントロールする具合、予定外のものでもすぐに何でも唄い弾く姿、唄い方、弾き方……言うなれば邦楽演奏家たちの佇まいそのものを話の内容とともに見ていただき、それら全体から何かを感じ取っていただけたら幸い、そういう機会と私は考える。
今回の創作のキモを聴いていて感じたのは、三味線音楽にまつわる全ては三味線という楽器に起因しているということだ。当たり前過ぎて、こうして文字にするとなんとも陳腐に見える感想なのだが、しかし、話す人・聞く人・弾く人、お客様を見ていて、ああこれが三味線音楽の本質だと腑に落ちた、あの思いは忘れられない。改善の余地はまだまだあるとしても、なかなかにゆたかな時間だったと思う。

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