創作Q面 創邦11面相

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ヨミモノ

創邦11面相

笛吹き同人福原徹が活動中の10人の仲間を巡る旅、題して創邦11面相
今月は清元栄吉を品川インターシティで待つ。

清元栄吉篇

どこから来て どこへ行くのか  [後篇]

三味線で作曲すること

――創邦に入ったきっかけは何です?

栄吉:これは清元美治郎さんがね。最初に今藤政太郎さんが清元美治郎さんにお声掛けなさったんだけど、美治郎さん、「ぼくはあんまり作曲しないので」っておっしゃって。すごいいい曲いっぱい書いてらっしゃるんですけどね。それで、こういう人がいますからってぼくのことを言ってくだすって、「こんど新しく創作邦楽の会をやろうと思うんだよ」っていう創邦の最初の集まりにぼくも寄せていただいたんです。

――じゃあ、三味線で作曲するようになったのは、創邦に入ってからというかんじですか。

栄吉:本格的にするようになったのは創邦の関係があったのは大きいですね。でも創邦に入るちょっと前くらいに作った『露のいのち』って曲は、三味線2本でやっているんですよ。それは中勘助作『しづかな流』の中の清元梅吉先生の『独楽』の影響だったと思う。

――三味線の曲を作るようになられて、それ以前の三味線以外の曲を作る時の作り方と、栄吉さんの中で違いはありますか。意識していることとか。

栄吉:違いというなら、例えば清元とかの語彙が決まっちゃってる世界があるでしょ、そういうものの内側で作るのか、三味線を単に楽器として扱って作るのかっていう、違い。邦楽というイディオムの内側で作るんだったら、邦楽のことばの内側で自分の表現を探すじゃないですか、当たり前だけど。そこから離れるんだったら、例えば『触草~クサニフレレバ』なんかは単に楽器として扱っているだけで。ただ、やっぱり三味線が響く音だとか三味線らしい動きだとかを無視して作るということは、演奏家として絶対にしたくない。お箏がピアノの真似する必要がないのと同じように。そうすると、2本の三味線を絡み合わせて使うのは、なかなか便利なんですね。いろんな網目でいろんなことができるから。

――栄吉さんから見ると、創邦の人たちの作ってる曲、だいたいが演奏それも和楽器の演奏から入ってきてる人の曲って、どんなかんじですか。

栄吉:そうだなあ、・・・スカスカしてるなあと思うことはあります。このラインを聴かせたいんだったらここをもっと支えてあげた方がもっと響くだろうなとかって聴くこともあるけど、その分、やっぱりみなさんは演奏家の自由度にそのことを暗黙に預けるから、それをじゃあって言って曲の細かい構造で作り込んじゃうと、逆に不自由さになるじゃない?最初に徹さんがおっしゃったみたいにぼくを「もともと作曲の人だ」ってご覧になるのであれば、それはぼくの不自由さかもしれないし。

邦楽は曖昧か 洋楽は精密か

――ときどき思うんですよ。前に栄吉さんが、あんまりプレイヤビリティに頼りたくないっておっしゃったことがあって。邦楽の人は多分すごくプレイヤビリティに頼ってると思うのね。例えば極端な話、強弱も殆んど書かないだろうしリズムにしたって曖昧な書き方だと思うんですよ。でもいわゆる洋楽の作曲家の人はかなり細かく書くじゃないですか。グラフィックにしてなんぼっていうことがあると思うんです。かなり精密な図面を作るっていう印象がある。その訓練を受けていて、ある種再現性がすごく高いっていう。もちろんそれでも演奏家によって変わるだろうれども、邦楽の比ではないと思うんですね。

栄吉:そういう意味ではぼくはとってもタチが悪くて、ぼくの書く譜面はとてもテキトーなんです。精密な譜面は書きたくないし、定量譜ってのは殆んどナンセンスくらいに思っているんですね。じゃあ、今言ったような意味で、要求するんだったら精密に書けっていう人がいるとする。まず考え方として、結果としてのレアリゼーションの定量を図面化するのか、あるいは曲の何か建前としての動きを、譜に定量化して書くのかっていうので、大きく違うんですよね。だけど、例えばヒューイヤロっていうのをこうですよと書いて、その通りに吹いて少しのズレもなかったと。でもそれもちょっと違うでしょって話になるじゃない?じゃあ、ズレたところを精密に32分休符とかで書いてみても、それはそれで違うでしょ。そうすると、どこにも正解がなくなっちゃうから、譜面自体がもうナンセンスだってつい思っちゃう。それじゃあ西洋の作曲家はものすごく精密に音楽を譜面にしているかっていうと、全然そんなことはないんですよ。だってバロックなんて数字しか書いてないし。通奏低音は全部アドリブで弾けってことでしょ。古典の時代でも後の時代でも、ワーグナーとかもね、その時代の、こう書いたらこう弾くものでしょっていう同意があってね、それは邦楽と大して変わらないわけ。それでまた指揮者が、ひとつの表現としてまとめていくための立三味線が、いるわけですから。同じことなのに、逆に邦楽の人は譜面に書かれると「こうしなくちゃいけない」ってとらわれるの。こう書いたけどこれを表現したいのではないって言うと「それならそれを書いてください」って言われちゃうこともあるし。いやだからそうじゃなくって!って言うけど、意外と伝わらない。だから、ぼくが精密な定量譜を書くかっていうと全然そうじゃなくて、むしろお互いの、上手な、全部聴き合ったアンサンブルの中のコミュニケーションの結果出てくる響きみたいなのを頭の中で鳴らしてるんだけど、それがそのとき伝わらなくて、あぁどうしたら伝わるんだろう?っていつも葛藤しているというのが、正しいです。

――書くという点ではわかったんですけど、作曲の段階で、さっきおっしゃったように頭の中にかなり完成形ができてるわけですよね、音としてのイメージが。

栄吉:うーん・・・

――でね、人によっていろいろとは思うけども、けっこう邦楽の場合はそれが曖昧な人が多いと思うんですよ。書く以前に、例えば唄の細かい節は適当に唄うたいの方でやってくれればいいやとか、あるいは笛だったら、なんとなくここは竹笛入れてくださいっていうように、形があるじゃないですか。でも栄吉さんの頭の中に鳴るのは、そういう形ではなくて、もっと厳密に決まっているんじゃないか。そうでもない?

栄吉:いや厳密っていうよりは、足し算じゃないだけなんですよ。三味線のライン書きました、笛を足して唄をこうすればこんな響きになるでしょう、じゃなくて、なんとなく「こういう響き」があって、・・・それが厳密に頭の中に浮かんでるわけではないですよ、でも「こんな響き」、これにしたいんで、今のソレだとちょっと違うんですよね、コレが終わった後ソレが欲しいんです、みたいなかんじになっちゃうのね。
要は、全体をひとつの耳で聴く習慣があるかないか。あるいはなんといっても邦楽は型のものだから。型と型を組み合わせてやるっていうのは古典、イヤ民族音楽ってそうですから。・・・ひょっとしたら、そういうふうに全く頓着なしにすごいプレーヤー同士がやっている時の偶然に訪れるすごい響きの瞬間を、ぼくは、毎回やってよ、って言ってるだけなのかもしれないけど(笑い)。

今という時代の、今の人の音楽を

――さっき清元として作るかそうでないものとして作るかをけっこう分けているとおっしゃってましたけれども、分けて作っていても同じ人が作っているわけだから、清元と清元以前に習得した音楽って、くっついていますでしょ?

栄吉:それはもう自然に出てきますよね。ただ、表現方法として、例えば日本語のなかに「ドレミ」ってことばがないのに、日本語の曲を書くのに敢えて「ドレミ」と言う必要はないんですよ。「ドレミ」というのは日本語ではどう言えばいいだろう、と考えるでしょ。例えば清元っていうスタイルで曲を書くときに、これを敢えて外国語で表現する必要がないわけですよね。だから、一時ありましたけど、西洋音楽っぽいものを古典的な曲の中に入れて、これが新しい音楽だとかっていうのは、好きじゃない。・・・「日本語」って言ったのは、清元を日本語に例えただけですよ。音楽の語法やら音楽の世界として、邦楽とか三味線音楽とかあるいは清元節っていう語法さまざまあるとしたら、それはことばで言ったら日本語のようなもので、それが、ロシアに行ってロシア語を学んできたからといって、それをそのまま日本語っていう表現の中に入れたら、変なことになるじゃない?ってことです。それは限定でも不自由でもないじゃないですか。チーンと三味線が一音鳴っただけで、ものすごい和音のような効果はあるわけだから。

――ってことは、まだ清元でも十分新しいものを作る可能性はあると?

栄吉:何を新しいというかですよね。単に表現の新しさとか語法の新しさとかっていうことで言ったら、どのジャンルの音楽も西洋音楽も含めて行き詰ってますから、やることなくなってるんですよね。クラシックも、もういまどき無調の音楽書いてる人はあんまりいませんし、十二音なんてやってる人は全くいませんし。だから何も新しいものを作らなくてもいいんじゃないですか、わからないけど。新しい体験をしてもらうことはできるんでしょうけど、なにかその、概念だとか方法論的に新しいものっていうのは、どうですかね。だからぼくは少なくとも清元どうこうってふうには思ってないんです。自分のいろんな音楽の中のひとつの芯になっている方向性が清元であって、その内側に自分の全てを投入しようと思ってないし。ぼくはむしろ清元の今までのものへの尊敬の方が大きい。

――どっぷりそこに浸かっちゃってると、そこで何かしなきゃいけないってところがあるだろうけどね。それしか手段がないっていうか。

栄吉:だから今の時代とズレちゃうんじゃないですか。ふつうの人はその内側で生きているわけじゃないから。いろんな音楽の中で生きてるわけだから。その視点がズレたまま邦楽はああだこうだって言うから、誰にも届かないような気もするんですけどね。

――そうおっしゃる栄吉さんのこれからの目標とか夢とか、ありますか。

栄吉:えー、映画の仕事ができたらいいなとは思っています。映画音楽って影響力強くて、印象に残りますし。去年のアナ雪だってそうじゃない?曲だけじゃあんなに流行らない。映画だけでもあんなに流行らない。純音楽的なものよりも、そちらの方が興味ありますね。

――音楽だけで完結させるというより、映像と一緒の付帯音楽だったりということですか、意外というか。

栄吉:そうかな。だって音楽だけで人を椅子に座らせて一定の時間引き止めて静かに聴かせるってさ、ちょっと乱暴な気がする。

――(爆笑)。映画音楽とはならないでしょうが創邦でもこれからもたくさん作っていかれると思うんですけど、ご自分の作るものとして、こういうのをやりたいっていうのはありますか。

栄吉:そう、大編成で「創邦ならでは」的なものをやりたいってことは思いますね。貴史さん(政貴)は今の人の人間性をえぐるようなものを作品にしたいって言って、そういうものを作り続けてるでしょ。ぼくも、昔の話をしててもいいんだけど今の人がリアルに何かを感じられることをやりたくて。そういうことではスタイルが別に清元であろうが邦楽であろうが、それはどうでもいいんです。今の人が、特別なものを聴きにきましたっていうんじゃなくて、ふつうに、邦楽器の合奏であろうとちゃんとした邦楽であろうと、邦楽を聴こうって身構えなくてもその人の何かに触れるような音楽表現があるわけじゃないですか。それだけです。それなくして形や企画で何かやったって、なんにもならないと思うし。前に作った『ぼくが作曲できない理由』は実存的なものだったし、『顔(おもて)』も同じ題材なんですね。創邦の作品を作っていくのであれば、ひとつの小説を読んだような、ひとつの映画を見たような何かを作りたいということかな。

――それは是非栄吉さん、実現させてほしいなあ。ぼくは笛って楽器のせいかもしれないけど、どうしても中へ入ってくる。笛一本でどこまでできるかって考えちゃう。で、他の人をあんまり気にしないで自由にやりたいっていうのがあるんですよ。だからある種スカスカのものを作ってると思うんです。多重の音をちゃんと聴く訓練をされてる栄吉さんが作る。もちろんぼくらも作る。作って聴いて。それが重要なことなんじゃないかと思います。

栄吉:だけど、音程が合っているとかちゃんとハモってるとかっていう次元じゃないものがいいですよね。それこそ狭い了見ですよ。大事ですけどね。お能とかでガーっと盛り上がるなんてのは、こんな狭い話じゃない。ちゃんと合奏のパワーがあってね。ああいうすごさは逆に、近世の邦楽には失われているものですよ。整理されればされるほど無くなっていくものですよ。だから勝手に自分でまとめますけど、清元栄吉は洋楽の作曲科出だからそっち方向に極めた人間と思われるのが、一番ズレているんで。ぼくは民族音楽に思いっきりハマって、洋楽じゃないところの面白さにハマってきたので。

――いや今日のインタビューで、そこを一番訊きたかったんです。ありがとうございました。

(2015年3月27日 品川インターシティにて)
ききて:福原徹、記録:金子泰

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