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東京藝術大学音楽学部 特別講座
現代邦楽の夕べⅠ ~作品と鼎談~ レポート

金子 泰

 2014年6月26日18時30分より東京藝術大学音楽学部の第6ホールにて、「現代邦楽の夕べⅠ」と題された講座が催された。これは藝大と「現代邦楽作曲家連盟(現邦連)」との共同企画であるが、講師として参加した今藤政太郎と米川敏子が当「創邦21」同人でもあることから、ここにレポートさせていただく。
 前述のように、講師は今藤政太郎と米川敏子。講師の話を聴くとともにその作品を生演奏で聴き、実作者の「理念と実践」に触れる藝大特別講座である。司会は、本学邦楽科主任であり現邦連同人でもある萩岡松韻氏。
改築がなされたばかりという木の香り漂う第6ホールに入ると、チェンバロとお箏が設置されており、その前に椅子が3つ置いてある。まず鼎談をし、それから作品を聴き、舞台転換の間にまた少し次の演奏曲などについての話を聞くという構成のようだ。
はじめの鼎談では、演奏曲それぞれの作曲に至る経緯のあと、最初の演奏曲「彩(あや)の響(ひびき)
~箏とチェンバロのための」について、特に箏とチェンバロという楽器の特性や共通点について米川から説明があった。両方とも撥弦楽器であること。同時代に活躍した楽器であること。響きを大事にしていること。

1曲目 「彩の響」~箏とチェンバロのための
    箏:米川敏子 
    チェンバロ:大塚直哉(東京藝術大学准教授)

 箏とチェンバロの音が違和感なく響き合うのに、まず驚かされる。まさに邂逅というべき二者はどちらが主でもどちらが従でもなく、徳丸吉彦氏の解説にあるようにそこには対話がある。古典曲でもよく耳にする箏のトレモロがチェンバロのそれと共鳴し、新しい響きをまとう。実に楽しそうに演奏された大塚氏の「チェンバロの現代曲としても弾き継いでいきたい」という言葉が、この曲の性格をよく表していると思う。
 演奏が終わり、舞台準備のための時間に、今度は作曲者の今藤政太郎から次の演奏曲について解説があった。「はなかご」「思ひあふれて」はいずれも小品歌曲。初々しさの残る「はなかご」を60代で、成熟した恋唄の「思ひあふれて」を20代で作曲したというのもおもしろい。いずれも自身の持っている音をそのまま曲にした、という。

2曲目 『小品歌曲二題』「はなかご」(閑吟集)
    唄と箏:萩岡未貴
    「思ひあふれて」(佐藤春夫)
    唄:杵屋秀子 
    箏:中川敏裕

 「はなかご」は、箏の弾き唄い。萩岡未貴氏の少し邦楽風を残した唄は、シンプルな旋律と相まって、この歌謡が同時代的にうたわれた時代に、若い女性が箏をかき鳴らし口ずさむ姿を、どこか髣髴とさせる。
 そして「思ひあふれて」。いわゆる邦楽の古典的な音ではない。しかしこれが邦楽かどうかなんてどうでもいいじゃないかと思うほど、杵屋秀子氏の唄はまっすぐにやって来た。正直なところ、出だしの1フレーズ「思い」だけでもう、打たれて涙があふれた(数日経った今思い出しても涙が出てくる)。中川敏裕氏の箏は、自然に唄に寄り添いひとつになる。先に創作年代のことを言ったが、否、これは若い頃でなければ書けない曲であった。

3曲目 「六斎念仏意想曲」
    三味線:今藤長龍郎ほか 
    太鼓:藤舎佐千子ほか

 大学3年在学中に作曲した、政太郎の処女作。三味線8名・太鼓4名の演奏者には、本学卒業のプロ演奏家のほか在学中の学生もいるということだ。にぎやかな、若いエネルギー横溢する曲。そしてどこまで速くなるのか心配するくらいプレストに盛り上がって、演奏を締めくくる。
 さて、邦楽の作曲を志す学生たちはこの講座を聴いて、政太郎の音の古典的邦楽からの「はみだし」に、米川の示した邦楽器の可能性に、大いに勇気づけられたことだろう。二人に共通する、「こうあるべき」という既成概念から自由な精神に、眼の開かれた思いもしたかもしれない。
わたしたちも然り。邦楽を「邦楽」とレッテル貼りした狭い箱の中に置いているのも、それを嘆いているわたしたち自身にほかならないのだと、改めて深く思う。箱の中から出すのもまた、わたしたち自身であるのだとも。
 それらを講師は二人とも声高に主張せず、むしろ控えめに、ただ自らの創作活動を提示することで受け手に委ねた。それゆえに受け手をつよく揺さぶるものがあった。
 最後に質疑応答があり、講座が閉じられたのは19時40分ごろ。実践は雄弁に理念を語る。いい作品、いい演奏に出会った幸福があった。

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