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『ぼくの芸のゆりかご・文楽』

今藤 政太郎

 このたび、夏休み文楽特別公演のプログラムに書かせて下さるとのこと、ぼくにとっては、難しいことながらたいへん嬉しいお話でした。
 ぼくは大学に入る少し前から、日本音楽の将来について大変な危惧を抱いておりました。大学を卒業して十年ほど経った昭和四十二、四十三年頃、急に思い立ち、近所の小学校に音楽の先生を訪ね、ぼくたちで邦楽の演奏をするから、課外授業あるいは音楽の授業で演奏と話とを聴いて欲しいんだとお願いをしました。音楽の先生は戸惑いを見せながら、ぼくの無手勝流の気持ちを汲んでくださり、校長先生と掛け合って全校的な催しにしてくださいました。
 それがぼくの「学校巡回公演」の事始めです。たぶん全ての学校巡回公演の走りとも言えると思います。
 子どもさんに日本音楽を聴かせる運動は若い時から目指していたことでもあり、それが思いもかけず、文楽劇場の子どもさん向けの「親子劇場」を含む夏の公演のプログラムに書かせていただき、重ねて申しますが嬉しい限りです。
 さて、文楽はぼくの邦楽家人生にとって、大きな大きな重みを持っています。
戦争も終わりようやく世の中も落ち着き始めた頃から、邦楽囃子方の父・四世藤舎呂船は、八代目綱太夫師匠、彌七師匠と懇意にさせていただいておりました。師匠方はよく父の家にお見えになり、稽古とは言えないような猛稽古をされていました。それは筆舌に尽くし難い、息の止まるような光景で、傍にいたぼくは、見ていただけで汗がほとばしるほどでした。
 専門的な話になりますが、ぼくのやっている長唄は、基本的にインテンポの音楽です。しかし両師と父の稽古から出てくる芸は、音楽とか浄瑠璃とかいう域を超えて、まさに埒外の一期一会の出会いでした。まだ十代で、ちょうど芸の感受性が醸成されていく年代に、そのような場にいられることができたのは、本当に幸せでした。
 そのあとしばらくして「大蛇(おろち)退治」(『日本振袖始』)の復元演奏がありました。その時の綱大夫、彌七の両師、父、そしてぼくの従兄・藤舎名生の演奏は、これ以上続いたら皆の心臓が止まってしまうのではないかというほどのものでした。
 岩長姫が登場したところで、
(小鼓)タッタッタッタッ タタスタタッタッ
と打ったあと、休みがあって、三味線と小鼓が
(三味線)ツルトロツル トロツルロン
(小鼓)トントントントン トトストトントン
と合わせます。はじめは普通に掛け声をして普通の間(ま)でやっていたのですが、
「掛け声やったら、つまりませんな」
「掛け声は、せんほうがよろしいな」
「そらそうどすわ」
「なしでやってみまひょか」
となりました。どうするのかと見ていますと、件(くだん)の箇所になると、彌七お師匠さんも綱大夫お師匠さんも父も真っ赤な顔をして、気の遠くなるような間を息をつめた挙句、フッといなす(・・・)ように弾く。こんなことができるのだろうかと、その時の芸に感激し、それと同時に芸の深淵に触れた思いがして途方に暮れたことも事実です。
 日本の芸道は、お茶といい、能といい(例えば「道成寺」の乱拍子、シテと小鼓に顕著なように)、あるいは相撲の立ち合いといい、計算してもしきれないような一期一会ということを非常に大事にするようです。なぜ日本人はこれほどに大事にするのだろうかと思います。
 話はかわりますが、先日テレビ番組で、オオカミが人間と共生するようになって、やがて犬となったプロセスの話がありました。その中に、人間と犬との間の「ポジティブ・ループ」という言葉が出てきました。「良い循環」とでもいうのでしょうか。心と心の共感を促すオキシトシンというホルモンが分泌されることによって、起こるのだそうです。母親が授乳する時に、我が子との間のつながりを深くする作用のあるホルモンです。人間と犬との交流にもその物質がさかんに分泌されて、さらに人間同士の共感や共生も、それによって促されているそうです。肉体的には必ずしも優れているとは言えない人間に、今の繁栄をもたらした基だという話でした。
 その「ポジティブ・ループ」は、大脳生理学の分析によって、日本人にとくに濃厚にみられることがわかっているようです。ちょっとまわりくどいのですが、それが日本人の精神的な支柱のひとつ、「和」という言葉になって表れているのかもしれませんし、もしかしたらそれが「一期一会」という形になって、ぼくたちの芸道に如実に表れたのかもしれません。
 今日みなさんは文楽をご覧になって、その一期一会という言葉の本質を存分に感じていただけることと思います。
 今、AIの出現により、文化の質が変容しつつありますが、一方で古き良き文化を失う危険にも晒されています。それを救うものは、この「共感」という、あるいは「ポジティブ・ループ」ということなのではないかと思って、文楽公演にあたって、感じたことをしたためてみました。
 幸いなことに、その文楽の方々と、ぼくもたいへんご縁が深くお付き合いさせていただいております。
 まだぼくが若いころ、上方舞の吉村雄輝師が「水」という新作を舞われることになり、その作曲を彌七師が依頼されたところ、なんとなんと「政太郎にやらせてやってくれ」というお話になりました。青天の霹靂とはこのことです。嬉しさと恐ろしさに身を打ち震わせたものでした。しかもその演奏を「あてが、やりま」とおっしゃってくださったのが、その彌七師なのです。その時の師の演奏は、作曲者であるぼくの意図を遥かに超えたもので、ぼくはただただ我が身の矮小さを思い知らされました。師の演奏のお蔭もあって、幸いなことに吉村流では好評をいただき、他の流儀も交えて、再演の機会をたびたび得ています。
 その折にご一緒だった源太夫師とは、その後何度もお仕事を一緒にし、また住太夫師とは昭和五十一年の「建礼門院 平徳子」というレコードでご一緒させていただき、その至芸に感動したものでした。清治師、五代呂太夫師、咲太夫師は、年下ながら芸の上では先達として尊敬する存在で、大きなぼくの目標の一つでした。
 また、ぼくが作曲した「雨」という曲を数年前にお人形と共演させていただいたことも、忘れられません。演奏が主となって、その前景にお人形が入るというスタイルは、かねてより一度はやってみたいと思っていたのですが、現実に遣っていただくとなると、邦楽用ホールというお人形向きではない会場のこと、舞台で演技するには難しい場面があること、とくに中ほどにある紅花畑でのラブシーンは、お人形が二体でも遣う人は六人、どのように演じてくださるか楽しみでもあり心配でもありました。
 その危惧した場面で、桐竹勘十郎師は、お手製のカカシのような人形で、しかもそのカカシ人形二体を一人で遣われました。さらに、最後の女主人公の振り絞るような述懐の場面を、全くお人形を遣うことなく、演奏者のためだけに空けてくださるという「演じない演技」を見事になされました。あれだけの方でありながら終始お顔を黒衣の中に隠してくださり、その演目本位の演出をしてくださったことからも、芸は心と頭だ、と改めて強く思った次第です。
 ぼくにとって文楽は「芸のゆりかご」であり、いまだに一種の尊敬と憧れを抱く、日本の芸術・芸能の最高峰です。
 将来を担う子どもさん方に文楽を見ていただくことは、日本人にとって幸せです。これからますます文楽が盛んになり、日本文化が輝きを持つようになればと、切に願っています。

※「国立文楽劇場 令和元年七・八月公演」パンフレットより転載

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