トップページ > ヨミモノ > [創邦11面相] 清元栄吉篇 ~どこから来て どこへ行くのか~ 前篇

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創邦11面相

笛吹き同人福原徹が活動中の10人の仲間を巡る旅、題して創邦11面相
今月は清元栄吉を品川インターシティで待つ。

清元栄吉篇

どこから来て どこへ行くのか [前篇]

音楽で生きる

――栄吉さんは創邦の中でいちばん「作曲の人」だと思うんです。経歴からいって当たり前の話なんだけど、みんなは三味線なり唄なりをまずやって、それから作曲を始めた。栄吉さんの場合は最初に作曲やって、藝大の作曲科にも入られた。作曲科に入った理由はいろいろあるでしょうけど、当然その前に音楽の実技をやっていたわけですよね?

清元栄吉:いちばん最初はピアノですね、3歳半かららしいです。4つ上に兄がいまして、兄貴のピアノ教室にくっついて行ってて、ぼくもやりたいとなった。

――藝大受けようって決めたのは幾つぐらいの時ですか。

栄吉:決めたのは多分小学校5、6年生のころかな。音楽で生きようと決めて、ゲーダイゲーダイってよく耳にしてたから、音楽やるならそこを出なきゃって思いまして。

――ふつうそんなころに決めないじゃないですか。特別そのころ憧れていた人がいたとか。

栄吉:小学校のころは、一番最初はミッシェル・ポルナレフ。めちゃくちゃ好きでしたね。それからビートルズ。それからこれはちょっとアレかもしれないけど、ピンク・フロイドからプログレに入って。小学校2、3年の頃から、みんな兄貴の真似っこでギターとかベースとか弾いてたし、ドラムも兄貴が親に買ってもらったドラムセットがあったから、5、6年のころから叩いてましたから。

――そこにはクラシックはないじゃないですか。そうやってバンド的な音楽をやっていて、どのへんから作曲に行こうと思ってたんですか。

栄吉:作曲はね、中学校だと夏休みの自由研究みたいなのがあるでしょ、中2のとき勝手に夏休みの宿題として、インストゥルメンタルの曲を作って、学校の先生のツテでスタジオ借りてひとりで多重録音して、その音と譜面とを提出するっていうのをやったんです。それを高2くらいまで毎年やりまして、横浜市の作曲コンクールで中2で優良賞、中3で最優秀賞もらったりして、それで調子こいちゃったのね(笑い)。和声とか対位法だとかの勉強は高校の2年からですね。大学受験のために。でもぼくにとっての作曲の勉強というのは、小学校くらいから、「耳コピ」ってあるじゃない?要は自分が弾きたい曲を一所懸命聴いて譜面に起こして練習してとかっていう。あれをものすごくやってました。

――高校くらいからですか、クラシックは。

栄吉:クラシックはね、高校に入ったらブラスバンドの連中が休み時間にベートーヴェンやなんかのスコア広げて、ここがなんだとかやってるわけ。こいつら、なんかシャクに障ると思って。横浜の公立高校ですけど、頭よくて大人びたやつが多くって。それから高校1年の12月だったか、セルジウ・チェリビダッケという人がロンドン交響楽団と一緒に日本に来て、ブラームスの1番とかをやったの。それを友だちに誘われて聴きに行ってすごい感動してね。高校のときは、授業中は勉強しないでスコア読んで、部活は軽音楽部でドラム叩いたりピアノ弾いたりしてたんですけど、進学校だったから2年秋の文化祭で引退することになってて、決まり通りに軽音楽部の部長を2年の秋に引退しまして、それからブラスバンドに入り直して(笑い)、パーカッションとかアレンジとかをやってた。

――じゃあ栄吉さんにとって演奏と作曲っていうのは、繋がってるのかな。どっちが先っていうのは・・・

栄吉:ないですね。作曲っていう仕事はひとりの世界でやるでしょ。だから演奏と作曲が一緒ではとおっしゃるけど、一緒であると同時に、自分の音の世界ができちゃたらもう、それが再現されるっていうイメージしかないんです、音ができあがっちゃっているから。それで演奏者その人なりの勢いだとかその人なりの邦楽的余地が無くなっちゃうんですね。それで、なんかこれは違うなあとずっと思い続けているし、だから創邦でもみんなで作曲したり合同作曲してみるわけです。

藝大で民族音楽にハマる

――藝大に入る前に邦楽と接点はあったんですか。

栄吉:全くなかったです。藝大入って副科で三味線を取りまして、田島(佳子)先生に習ったんです、長唄三味線の。・・・それはなんでですかね。

――・・・いろいろ楽器をやってみたかった感じですか?

栄吉:とにかくあの、藝大入ったらみんな西洋の現代音楽をやるでしょ、ぼくは、同じ土俵では敵わないと思って、西洋現代音楽以外のものをやりたいと。で、たまたま、ぼくがプログレのバンドで一番好きだったジェネシスのピーター・ガブリエル、この人が独立して、アフリカとかのいろいろな音源を採集してきちゃアルバム作っていたのにけっこう影響を受けていたこともあって、じゃあそういうのをやろうと思ったんですね。最初ガムラン、ジャワの音楽やろうと思って、それからカヤグムやっていろいろやって、三味線はけっこう後になってからです。ガムランやろうと思ったのは、大学1年の9月の芸祭の時だったかな、ピロティでジャワガムランやってて、音楽もですけど太鼓を叩いてたサプトノさんって方がすごく風変わりで興味を持ったんです。そこで誘われて2階のガムラン部屋に影絵芝居を見に行ったら、太鼓の合図で音楽がワァっと変わるんですよ、風がビュアっと吹くかんじ。それでガムランにハマりだして、サプトノ先生の住込弟子みたいになって。先生のところに泊まり込んで、みんなでご飯食べて、気が向くとちょっと太鼓の稽古してもらって。そんなこんなの中で、日本の民族音楽もここ(藝大)で触れられるからやってみようと思って、で、やってみたと。

――長唄の三味線なさって、常磐津の三味線もなさってますよね、それから清元へ。清元に行った理由って何だったんですか。楽器的なこと以外にジャンル的なことってありますか。けっこうジャンルの音楽に左右されると思うんですよ、三味線って。三味線っていう楽器でもあるけど、やっぱりジャンルの音楽でもあるじゃないですか。

栄吉:うん、たまたま清元の教室覗いたら面白かったんですよね。三味線のね、押さえてる勘所とかもいわゆる半音で割り切ったのとは違う音出しますし、ガムラン的だと思いました。「あ、なんでここはこういう音出すのかな」とかね。唄が延ばしてるところを待って、チンとか弾くでしょ。あと浄瑠璃がね、これは面白いなと。三味線より浄瑠璃を習おうと思って、最初はずっと浄瑠璃を習っていたんです。

――清元というものに魅力を感じたと。

栄吉:あのね、藝大に外語大の西江雅之さんて文化人類学の先生が来てたんですよ。ぼくはその方の授業が好きで、よくお昼もご一緒してた。で、ぼく便秘がちなもので、ある時「ぼく、なかなか出ないんですよね」って言ったら西江先生に「遠藤君(栄吉)はもう作曲やめて下剤飲んでたらいいですね」なんて言われて(笑い)、意外に深い言葉だぁなんて思っていたんだけど、大学3年の時かな、副科でも発表会がありますよね、その勉強会の朝にやっぱり出ないから3階の邦楽棟の端っこの便所に入ってじーっとやってたわけ。そしたらキタナイ話ですけど、隣の個室で勢いのあるすごい音がして、バターンって音がして人がジャーっと手を洗ってる音がして、誰だあ?と見たら、ちょっと小太りで頭が禿げかかったガラの悪そうな人がウーっとか言って出て行ってて。誰だろうなと思ったわけ。あんな人いるんだあって。で、4年になって、その頃つきあってた彼女が副科で取ってるからって聴かせてくれたテープが弾き唄いで渋い声で。「何これ?」「清元」っていうのでこれは面白そうだと思って3階行って、柿澤教官と書いてある教室をガチャっと開けたら、便所のおじさんがいたわけ。だからやっぱり人間的な出会いがすごい大きいんですね。

――てことは、清元榮三郎先生に三味線習い始めたのは4年の時なんですか。

栄吉:ううん、三味線習い始めたのは卒業してからですよ。浄瑠璃を1年やって、もうちょっと習いたいなあと思ったから留年して、5年の時は志佐雄(太夫)先生に習って。その頃に、まあだいたい歌舞伎なんて殆んど観たことなかったけど、出てらっしゃるからたまに観に行ったりしてて、ある月に「かさね」があった。玉三郎さんとまだ孝夫だった仁左衛門さんが、両花道でね。もう、「かさね」だけ幕見でその月4回観に行きました。与右衛門がかさねを騙して後ろから鎌でグサっとやるところがあるんですけど、「いそいそ先へ忽ちにチツチツ」っていう、そこへくるともう、うわっと涙が出るんです。それで、これは!と思って卒業しても榮三郎先生のお稽古場に行くようになって、足繁く通っていろんな人のお稽古聴いてるうちにぼくもお三味線やってみたいなと思って、先生にお願いしたと。

そして清元へ

――そこから直線的に今日に至るわけですね。その清元のお三味線のお稽古は、始めてみてどうでした?普通に考えるとけっして早いスタートではありませんよね。

栄吉:あのねえ、その・・・やっぱり作曲科を卒業しても何で自分は生きていくのか、すごい迷いがあって、作曲したいからといってもそんなに仕事があるわけじゃないし、かといって自分の作りたいものを作りつつ学校の先生とかをして生きていくっていうのもどうかと思ったし。ガムランで生きていけるかっていったら、それも難しい。大学なんか行くとさ、なんで日本人が西洋の音楽をやるのかなんて話も出てくるじゃない?自分の音楽ではないけど、日本人が江戸時代の日本の音楽を専門として、それを土台にして一生勉強していってもいいなと、ちょっと思ったの。たかが20歳そこそこで自分の持っているものを「これが自分の音楽だ」ってやってるよりは、いつかまた作曲することもあるだろうけど、こうして修業するのもアリかなって。けっこう悩んだんですけどそう思ったんですね。

――清元で好きな曲って具体的にありますか。

栄吉:たくさんありますよ。清元らしいのが好きです。有名なのでいうと『山姥』『保名』『お半』とか。『長生』とか。要は浄瑠璃がおいしく出来てて、三味線はひたすら伴奏しているような曲ですね。

――清元で三味線の修業を始めた時は、作曲と三味線を結びつけるというふうには考えていなかったわけですか。

栄吉:なかったですね。わりと作曲の依頼の多い先生でしたから、そのお手伝いはよくしてましたけどね。最初の頃はね、師匠にすごくかわいがられた。それが本気でやるってなった途端、手のひらを返すように・・・

――厳しくなった?

栄吉:まあこれが、一切稽古がないですね。朝からずーっとお茶出ししたりお使い行ったり。で、ちょっと稽古。後はずーっと控えてる。最後の昔風のお弟子ですね。今思えば楽しかったし、ずいぶん大切に育てられたんだろうなとは思います。お稽古ってのは、本番でやってるそのものを伝えているようで、その実違うじゃないですか。お稽古のための何かパフォーマンスであって。とくにうちの師匠はさ、客観的に何かを伝えるのはすごい苦手な人だったんです。伝えるときに違うものを伝えちゃったりしてさ。こういうやり方はガムランの時も似たようなものだったから、あんまり抵抗なかったですけどね。

――で、清元をやってらして、創邦に入る前に既に作曲なさってましたよね?

栄吉:えっとねえ、・・・ひとつふたつ作ったくらいですね。作曲は好きなことなんだけど、でも修業時代は、曲作ろうって思う暇もゆとりもあんまりないというか、あんまり思ってなかったんですよ。ただうちの師匠が作ってるのを手伝ってて、オレだったらこの歌詞はこうやるなあとか、考えることもありましたけど。

――いよいよぼくたちの知っている「清元栄吉」の誕生ですが、つづきは後篇で。

・・・後篇につづく

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